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メルセデス・ベンツという名前の由来となった愛娘「メルセデス・イエリネック」を知る

溺愛する娘の名を冠した父、エミール

 ドイツの自動車メーカー名「メルセデス・ベンツ」にある”メルセデス”は、エミール・イェリネックの娘が大きく関係しているのは有名な話。実業家の父とその娘がまつわるメルセデス・ベンツという名前の由来などについて探っていきたいと思います。

メルセデス・ベンツという名前の由来

 現在のダイムラー社製の自動車には、すべてメルセデス・ベンツの名が冠せられています。1890年に設立されたダイムラー・エンジン会社の販売会社を経営していたエミール・イエリネックの愛娘「メルセデス」の名を取ったもの。彼はオーストリアのビジネスマンであり、フランス・ニースでオーストリア・ハンガリー帝国の領事も務めた人物。メルセデスと名付けられたクルマは1900-1901年頃に作られ、1902年に正式に商標登録されました。

 一方、ベンツ社の商品名は”ベンツ”と名付けられていました。1926年ダイムラー社とベンツ社は合併後、会社名はダイムラー・ベンツ社、その商品名のすべてをメルセデス・ベンツと名付けられ、現在に至っているわけです(現会社名はダイムラー社)。

 

40歳の若さで他界したメルセデス・イエリネック

 さて、本題のメルセデス・イエリネックはどのような生涯を過ごしたのか、はあまり知られていません。世界有数の高級自動車メーカーとなったメルセデス(ベンツ)の生い立ちについて調べてみました。

 1889年9月16日、メルセデス・イエリネックはオーストリア・ウィーンでダイムラー・エンジン会社の自動車を販売していた父エミール・イエリネックと母レイチェルの間の3人目の子供として誕生。成人したメルセデスは、1909年にウィーンのカール・フライヘル・フォン・シュロサー男爵とフランス・ニースで盛大な結婚式を挙げ、1912年に娘のエルフリーデ、1916年には息子のハンス・ペーターを出産して二児の母となりました。

 そして、1926年にウィーンの彫刻家ルドルフ・フォン・ヴァイグル男爵と再婚。男爵は数か月後に結核で急逝、後を追うようにメルセデス自身も1929年2月23日に40歳という若さでこの世を去り(骨癌)、現在はオーストリア・ウィーン中央墓地(墓の場所はグループ59C、No.26)で眠っていますが、メルセデスの名前は現在でも生き続けているのです。

 このウィーン中央墓地には、ウィーンフィル・ニューイヤーコンサートで有名なヨハン・シュトラウスをはじめ、ウィーンで活躍した大作曲家のブラームス、ベートーベン、シューベルトも眠っています(同、32A区画)。さらに特別区は、各界の著名人が多く眠るエリアとなっており壮大な墓が連なっています。特筆は、そんなウィーン中央墓地にメルセデス・イエリネックが共に眠っていることです。

 200ヘクタールの広大な敷地を持つ自然公園に位置するウィーン中央墓地は、ヨーロッパで2番目に大きな墓地。1874年建設と歴史は古く、墓地の中央にはカール・ボロメウス教会があり、墓地のシンボル的存在となっています。しかも、日本の墓地の様な厳かなムードではなく、博物館やカフェが併設されるなど、ウィーンっ子達の隠れた心地良い公園であり、ウィーン市内から20分程度とアクセスもよく、世界各国から観光客を集める名所となっているのです(住所=Simmeringer Hauptstraße 234、1110 Wien)。

エミール・イエリネックからみたダイムラー車

 メルセデスの父「エミール・イエリネック(1853-1918年)」は、19世紀の終わりから20世紀初頭にかけて活躍したオーストリア生まれの実業家。自動車にも興味を持ち、1899年の初めから「ムッシュ・メルセデス」の名でコート・ダジュールのレースに参戦した実力の持ち主でした。彼は理想のクルマを手に入れたいとの情熱を込めて、居を構えていたウィーン近郊のバーデンやフランス・ニースの人々をはじめ、果てはドイツ・カンシュタットの当時のダイムラー・エンジン会社にまで、自動車の速さやエンジン出力、品質、軽量化などを説いて回ったのです。

 何故なら、彼はダイムラー車を駆る名ドライバーとして、大金融財閥のロスチャイルド男爵らと並ぶ存在。実業家の彼は、この趣味を仕事にも活かしたいと考えたのです。ダイムラー車の旧式なメカニズム(彼は現在の車と同じ基本構造とパワフルでハイスピードを要求)に加えて、その名前にもうんざりしており、1901年に登場した『モデル35PSダイムラー』という如何にもドイツ的なモデル名は、フランスで販売するには堅すぎると考えたのです。

 さすがは、セールスマンのパイオニアと云われるだけあって、ダイムラー・エンジン社に大量発注(まとめて36台)の条件として、自分が販売するクルマに”メルセデス”の名前を冠することを申し入れたのです。エミールがメルセデスと云う女性名を付けたかったのは、どこへ行っても自慢の種としていた愛娘のメルセデス(当時10歳)の名前だったからです。

 ダイムラー社の役員は、これ以降、自社の車をすべて「メルセデス」と呼ぶことにし、1902年に正式に商標登録(1901年には35PSダイムラーを改め、35PSメルセデスと改称。さらに1902年に40PSとなりメルセデス・シンプレックスの名称で親しまれた)。以後、ダイムラー・エンジン会社のメルセデスは、フランスだけでなく、ベルギー、ハンガリー、そしてアメリカでもめざましい売れ行きを示したのです(イエリネックはダイムラー社の役員にも選出され発展に貢献。1909年引退)。

娘のメルセデスからみた父エミールの存在

 父のエミール・イエリネックはアフリカ「ソラトピー」の帽子をかぶり、母国オーストリア製の自転車を乗り廻していました。オーストリアの貴族の生まれであり、北アフリカでの商売に成功し大富豪となり、フランス・ニースでオーストリア・ハンガリー帝国の領事も務めた存在。ニースといえば、裕福な人々から人気のリゾート地で、フランスの裕福な人々の間では、自動車レースが恰好の冒険として注目されていました。父エミール・イエリネックも冒険心が高じて自動車レースの虜となった一人だったのです。

 メルセデス(三女)が生まれてからというものは、事業もうまくいき愛着を覚え、どこへ行っても自慢し、愛情を注いだのです。それは「ムッシュ・メルセデス」の名前でレースの参加名簿に記入した事で証明すると同時に、「好きになってもらい、愛してもらうには、自動車は女性の名前であらねばならぬ」と常々語っていたと伝えられています。

 当時のクルマは発明者や設計者、あるいはメーカーの名前であるのが一般的。例えば、ダイムラー、ベンツ、パナール&ルヴァソール、プジョーなど、いずれも男性の名前でした。その点、父はきわめて先見の明があったと言えるでしょう。

 

“Mercedes-Benz”をどのように呼んでいますか

 ”メルセデス・ベンツ、メルツェデス・ベンツ、マーセデス・ベンツ”。じつは、昔の日本読みでは、マーセデス・ベンツ、もしくは単にベンツと呼んでいました。しかし、今の日本では”メルセデス・ベンツ”と呼ぶのが正式。同じ発音上の理由でアメリカ人がメルセデス・ベンツと発音すると、”メルセイデイーズ・ベンツ”と聞こえます。

 また、本国のドイツ語では”メルツェデス・ベンツ”と発音。このように由緒あるMercedes-Benzの車名の歴史を正しく理解していれば、単にメルセデスやベンツではなく、正式にメルセデス・ベンツと呼ぶ事になります。

●参考文献&写真=メルセデス・ベンツミュージアム
●写真&資料提供(ウィーン中央墓地)=Shoichi Yatsu(ウィーン在住)

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