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フェラーリやランボの半額以下でバカ売れ! スーパーカーの常識を覆した「デ・トマソ・パンテーラ」という欧米コラボマシン

7260台とスーパーカーのなかでも総生産台数が多いパンテーラ

 スーパーカーと言えば、ランボルギーニやフェラーリのようにV12、それもツインカム……V型なので正確には4本カムの48バルブと、まさに繊細で芸術的なエンジンをミッドシップに搭載するのが公式となっていました。

 それに反抗するかのように、プッシュロッドで野太いサウンドを奏でるアメリカンV8を搭載したスーパーカーも存在しました。その代表的なモデルが1970年に登場したデ・トマソ・パンテーラです。

 今回はイタリアとアメリカの合作となったデ・トマソ製のスーパーカー、パンテーラ・シリーズを振り返ってみました。

レーシングカーコンストラクターからスポーツカーメーカーに

 パンテーラ・シリーズを振り返る前に、まずはその生みの親であるデ・トマソの歴史を紹介しておきましょう。地元アルゼンチンでドライバーとして頭角を現してきたアレハンドロ・デ・トマソは、ヨーロッパに渡ってレース活動を続けたあと、レーシングカー・コンストラクターとしてアウトモービリ・デ・トマソを立ち上げています。

 最初に製作したのはフォーミュラ・ジュニアで、F2を経て1961年にはF1GP用のマシンを製作しています。残念ながらシャシーの競争力以前に、非力なエンジンが災いして好結果を残すことはできませんでした。

初のロードゴーイングカーモデルはヴァレルンガ

 1962年にはロードゴーイングカーに進出しています。最初のモデルとなったのはヴァレルンガと名付けられたオープン2シーターで、バックボーンパイプの後半に、英国フォード製の1.5L直4エンジンを直接ボルト止めして搭載したミッドシップ・スポーツでした。

 のちにヴァレルンガにはギアが手掛けた2ドア・クーペボディを架装した、ベルリネッタも登場しています。そう、このときにシャシーを企画制作するデ・トマソと、エンジンを供給するフォード、ボディを手掛けるカロッツェリア・ギアのトライアングルが完成していたのです。

 続いて彼らが手掛けたクルマが1966年のトリノショーでデビューしたマングスタでした。マングスタ(Mangusta)とはイタリア語でマングースを意味していますが、これは同じフォード製エンジンを搭載したスポーツカーで、いかにも英国的な成り立ちを見せるACコブラを意識したものと伝えられています。

 それはともかくマングスタは、ヴァレルンガのエンジンを1.5Lの直4から4.8LのV8に乗せ換え、少しホイールベースを延長したシャシーに、チーフスタイリストとしてベルトーネからギアに移籍直後のジョルジェット・ジウジアーロが手掛けたボディが架装されていました。最大の特徴はエンジンフード。センターに伸びた“背骨”を支点に両サイド部分が跳ね上がる、ガルウィング・スタイルとなり、当時としては先進的なデザインでした。

マングスタをより現実的にブラッシュアップして登場したパンテーラ

 マングスタの発展モデルとして、1970年のニューヨーク・ショーでデビューしたモデルがパンテーラでした。発展モデルとは言うものの、フォードのV8エンジンをミッドに搭載する2シーターの2ドアクーペという基本スペックこそ共通していましたが、そのほとんどすべてが新設計されていました。

 まずエンジンですが、同じくプッシュロッドのフォードV8ながら、排気量はマングースの4.8Lからボアもストロークも拡大延長されて5.8L化。最高出力も305psから330psにパワーアップされていました。

 1Lの排気量アップに対して25psアップという数字は意外ですが、その発生回転数がそれぞれ6200回転と5400回転と聞けば思わず納得です。そう、トルク特性を考えてチューニングされた結果、低回転域から野太いトルクが捻り出されていたのです。

 これが搭載されるシャシーも一新されていました。マングスタがバックボーンフレームだったのに対して、パンテーラではフロアパンを主構造としたモノコックとに変更されていました。前後のサスペンションも基本形式としてはダブルウィッシュボーンで変更はありませんが、マングスタのリヤサスペンションは、まるでレーシングフォーミュラのような形式だったのに対し、ロードゴーイングとしてコンサバなスタイルに変更されています。

パッケージングに優れていたパンテーラ

 架装されているボディはギアで製作されたものですが、ジウジアーロに代わってチーフスタイリストとなったトム・ジャーダが腕を振るっていました。マングスタで前任者のジウジアーロが盛り込んだ、ガルウィング式にエンジンフードが跳ね上がる、というようなギミックはありませんでした。ですが、フードを開けるとふたりの小旅行には十分なキャパシティのトランクが設けられています。また、フロントのフード下にもラゲッジスペースがあり、日常使用にも耐えられるスーパースポーツとして、パンテーラは人気を呼んでいました。

 ライバルのスーパースポーツカーに対して遥かに多くの販売を記録。マングスタに比べると桁違い(2桁違い?)の販売を記録したパンテーラですが、完成度が高く、商品価値が高められたことに加えて、販売価格が抑えらていたことも大きな要因となっています。

 実際にスーパーカーのツートップの価格を見ていくと、フェラーリの365GT4/BBが1700万円、BB512は2400万円、ランボルギーニのLP400が1750万円、LP400Sは2400万円となっていましたが、それに対してデ・トマソのパンテーラは750万円と半分以下と設定されていました。

 これにはフォードの支援も大きかったようで、北米ではリンカーン/マーキュリー系のディーラーを通じて9000ドルで市販され、生産計画も年産4000台とされていたことも見逃せません。ちなみに、この9000ドルというのは当時の邦貨で324万円でした。

 ニクソンショックを経て1973年に変動相場に移行した段階では約240万円。当時の物価から考えると現在では約480万円となります。480万円のパンテーラ。これはもう買いのひと言ですよね。それはともかく、その後1970年代初めには第一次の石油ショックが勃発。

 大排気量車に対する風当たりは強くなりましたが、1973年にはパンテーラGTSをリリース。その後もグループ4仕様(競技車両)をベースにロードゴーイング仕様に仕立てたパンテーラGT4や後継モデルのGT5、GT5Sなどハイパフォーマンスを強調したモデルを次々とリリース。

 1991年のトリノショーでお披露目された最終モデルのSIは、ジャーダに代わってマルチェロ・ガンディーニがデザインを担当しましたが、こうして1993年まで生き永らえたパンテーラは総生産台数7260台という、スーパーカーとしてはとてつもない記録を残して表舞台から去っていきました。

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