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フェラーリやランボの半額以下でバカ売れ! スーパーカーの常識を覆した「デ・トマソ・パンテーラ」という欧米コラボマシン

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TEXT: 原田 了(HARADA Ryo)  PHOTO: 原田 了

マングスタをより現実的にブラッシュアップして登場したパンテーラ

 マングスタの発展モデルとして、1970年のニューヨーク・ショーでデビューしたモデルがパンテーラでした。発展モデルとは言うものの、フォードのV8エンジンをミッドに搭載する2シーターの2ドアクーペという基本スペックこそ共通していましたが、そのほとんどすべてが新設計されていました。デ・トマソ パンテーラ

 まずエンジンですが、同じくプッシュロッドのフォードV8ながら、排気量はマングースの4.8Lからボアもストロークも拡大延長されて5.8L化。最高出力も305psから330psにパワーアップされていました。

 1Lの排気量アップに対して25psアップという数字は意外ですが、その発生回転数がそれぞれ6200回転と5400回転と聞けば思わず納得です。そう、トルク特性を考えてチューニングされた結果、低回転域から野太いトルクが捻り出されていたのです。

 これが搭載されるシャシーも一新されていました。マングスタがバックボーンフレームだったのに対して、パンテーラではフロアパンを主構造としたモノコックとに変更されていました。前後のサスペンションも基本形式としてはダブルウィッシュボーンで変更はありませんが、マングスタのリヤサスペンションは、まるでレーシングフォーミュラのような形式だったのに対し、ロードゴーイングとしてコンサバなスタイルに変更されています。

パッケージングに優れていたパンテーラ

 架装されているボディはギアで製作されたものですが、ジウジアーロに代わってチーフスタイリストとなったトム・ジャーダが腕を振るっていました。マングスタで前任者のジウジアーロが盛り込んだ、ガルウィング式にエンジンフードが跳ね上がる、というようなギミックはありませんでした。ですが、フードを開けるとふたりの小旅行には十分なキャパシティのトランクが設けられています。また、フロントのフード下にもラゲッジスペースがあり、日常使用にも耐えられるスーパースポーツとして、パンテーラは人気を呼んでいました。デ・トマソ パンテーラ

 ライバルのスーパースポーツカーに対して遥かに多くの販売を記録。マングスタに比べると桁違い(2桁違い?)の販売を記録したパンテーラですが、完成度が高く、商品価値が高められたことに加えて、販売価格が抑えらていたことも大きな要因となっています。

 実際にスーパーカーのツートップの価格を見ていくと、フェラーリの365GT4/BBが1700万円、BB512は2400万円、ランボルギーニのLP400が1750万円、LP400Sは2400万円となっていましたが、それに対してデ・トマソのパンテーラは750万円と半分以下と設定されていました。

 これにはフォードの支援も大きかったようで、北米ではリンカーン/マーキュリー系のディーラーを通じて9000ドルで市販され、生産計画も年産4000台とされていたことも見逃せません。ちなみに、この9000ドルというのは当時の邦貨で324万円でした。

 ニクソンショックを経て1973年に変動相場に移行した段階では約240万円。当時の物価から考えると現在では約480万円となります。480万円のパンテーラ。これはもう買いのひと言ですよね。それはともかく、その後1970年代初めには第一次の石油ショックが勃発。デ・トマソ パンテーラ

 大排気量車に対する風当たりは強くなりましたが、1973年にはパンテーラGTSをリリース。その後もグループ4仕様(競技車両)をベースにロードゴーイング仕様に仕立てたパンテーラGT4や後継モデルのGT5、GT5Sなどハイパフォーマンスを強調したモデルを次々とリリース。

 1991年のトリノショーでお披露目された最終モデルのSIは、ジャーダに代わってマルチェロ・ガンディーニがデザインを担当しましたが、こうして1993年まで生き永らえたパンテーラは総生産台数7260台という、スーパーカーとしてはとてつもない記録を残して表舞台から去っていきました。デ・トマソ パンテーラ

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  • 原田 了(HARADA Ryo)
  • 原田 了(HARADA Ryo)
  • ライター。現在の愛車は、SUBARU R1、Honda GB250 クラブマン、Honda Lead 125。クルマに関わる、ありとあらゆることの探訪が趣味。1955年、岡山県倉敷市生まれ。モータースポーツ専門誌の地方通信員として高校時代にレース取材を開始。大学卒業後、就職して同誌の編集部に配属。10年間のサラリーマン生活を経て90年4月からフリーランスに。モータースポーツ関連の執筆に加え、オートキャンプからヒストリックカーイベントまで幅広く取材。現在ではAMWに、主にヒストリー関連コラムを執筆。またライフワークとなった世界中の自動車博物館歴訪を続け、様々な媒体に紹介記事を寄稿している。
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