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【悪魔のフィアット】21706cc航空機用エンジンを搭載した「メフィストフェレス」の最高速度は?

エンジンは21706ccの直6エンジン

陸上速度の世界記録挑戦会に参加し234.980km/hを記録

グループ企業である「フェラーリ」のF1活動や「ランチア」のラリー活動が、ファンならずとも広く認知されているフィアットですが、1970年代には自らもアバルト124ラリーや131アバルト ラリーでWRCを戦っていました。さらにミッレミリアなどのロードレースでも活躍していましたが、変わったところではスピードブレーカー、いわゆる速度記録にも挑戦。それが悪魔のクルマと呼ばれたフィアット・メフィストフェレスです。

フィアットは設立当初からモータースポーツにも積極的に参加

20世紀直前の1899年にトリノで創設されたフィアットは、創業間もない1901年に第1回大会が行われたジロ・デ・イタリア・アウトモビリスティコ(Giro d’Italia Automobilistico。一般的には“ジロ・デ・イタリア”と呼ばれていますが同名の自転車によるロードレースと区別するため、正式名称としてはアウトモビリスティコが付いています)においてモータースポーツデビューを果たしています。

これはフィアット創設者のひとりで、後に社長としてフィアットをヨーロッパを代表する自動車メーカーに成長させただけでなく、イタリア最大の企業グループにまで発展させたジョヴァンニ・アニェッリ(Giovanni Agnelli)は、フィアットを創立させる以前にトリノ~ヴェローナ間で行われたロードレースでクラス優勝を果たした経歴を持っています。クルマを育てる上でレースが重要であること、そしてレースに勝つことが宣伝戦略でも重要であることを、身をもって理解していたようです。

この辺り、トヨタの豊田章男社長(2023年4月1日より代表取締役会長に就任)の唱える「レースがクルマを鍛える」と似ていて、クルマ好き、かつレース好きな身には納得できるところですが、それはさておき。第1回大会のジロ・デ・イタリアでは、完成したばかりの12HPでアニェッリやロベルト・ビスカレッティ・ディ・ルッフィア伯といったフィアットの創設メンバーが参加していましたが、以後は腕利きのドライバーによる参戦となっていきました。

ちなみに、ジロ・デ・イタリアはミラノで発行されている日刊紙(Il Corriere della Sera)が後援し、トリノ自動車クラブがイベントを運営していましたが、イタリア・オートモビル・クラブの会長で、やはりフィアットの創設メンバーであったロベルト・ビスカレッティ伯の発案がきっかけとなっていたようです。ラテンの血が騒いだのでしょうか? いずれにしてもフィアットには、そうした熱い血が流れていたことは確かでしょう。

ACFグランプリと3大レースを総なめにしていたフィアット

当時のフィアットの、レースにおける活躍をもう少し詳しく紹介しておきましょう。1901年のジロ・デ・イタリアでレースデビューを果たしたフィアットは、その後も散発的に参戦を続けていましたが、1903年には当時のレースの本場だったフランスに遠征を始めています。

まだまだレース専用マシンというわけではなく、まずはロードカーの18HPをチューニングした24HPが主戦マシンとなりました。ただしこの24HPは、エンジンこそ専用に設計された4.2Lの直4でしたが、シャシーにはまだウッドフレームを採用した旧式なモデルだったのです。

翌1904年にはフレームをオールスチール製にコンバートしたマシンで、コッパ・フローリオにおいてメジャーイベントにおける初優勝を飾っています。さらに1907年には地元イタリアのタルガ・フローリオ、ドイツのカイゼル・プライス、フランスのディエップで行われたACFグランプリと3大レースを総なめに。

そんなフィアットが1908年、英国の自動車メーカー、D.ネイピア・アンド・サン(D. Napier & Son Limited)製のクルマを駆るフランク・ニュートンとのマッチレースに臨む、フェリーチェ・ナッザーロのために製作したマシンがS.B.4でした。

1907年のACFグランプリの優勝マシンに搭載されていたエンジンを再チューニング。18146cc(ボア×ストローク=190.0mmφ×160.0mm)の排気量から175HPを絞り出していました。これに対しニュートンのネイピアは最高出力200HPを謳っていて、圧倒的な優勢が予想されていましたが、イギリスのブルックランズで行われたマッチレースではニュートンのネイピアはクランクシャフトを折ってリタイアし、結果的にナッザーロが勝利を飾ることになったのです。ただしその後、S.B.4は数奇な運命をたどることになりました。

S.B.4にフィアット製の航空機用エンジンを搭載した“悪魔のクルマ”

ブルックランズでニュートン/ネイピアとのマッチレースで勝利を収めたナッザーロ/フィアットでしたが、その後しばらくの間は表舞台から姿を消すことに……。第一次大戦が終結し、久々の平和が訪れた1922年、新たなオーナーとなったジョン・ダフのドライブでレースにカムバックしたS.B.4でしたが、レースの途中でシリンダーブロックが砕け散るほどのエンジントラブルに見舞われてしまいました。

しかし、これで廃車になってしまうと多くの関係者が危惧したのですが、そんな予想に反してS.B.4は再度カムバックを果たします。アマチュアながら名ドライバーとして活躍していた英国人のアーネスト・エルドリッジ卿(Sir Ernest A.D. Eldridge)がS.B.4を手に入れ、大幅に改造することになりました。

ホイールベースを延長し、壊れた4気筒エンジンを航空機用の21706cc(ボア×ストローク=160.0mmφ×180.0mm。最高出力は320HP)の直列6気筒24バルブエンジンに載せ替えたのです。エンジンの銘柄としてはフィアット製のA12Bisで(自動車用と航空機用でまったくの別物でしたが)同じメーカー製のエンジンにスワップしたことになります。

悪魔の名前はイベントに立ち会った観客やマスコミによって命名!?

ただし、他人から魂(エンジン)を盗んだとして、ファウスト博士の魂を買う悪魔に因んで、メフィストフェレスと呼ばれることになりました。もっともこのネーミングは、当時のオーナーだったエルドリッジ卿や、もともとの製作メーカーであるフィアットが名付けたものではなく、イベントに立ち会った観客やマスコミによって命名されたと伝えられています。

またその理由はファウストの物語ではなく、サイレンサーを装着していない排気音に驚いた観客が「まるで地獄の底から聞こえてくる悪魔の唸り声のようだ」と感じて命名した、とも伝えられています。

エルドリッジ卿が出場したイベントは1924年にフランスはパリ近郊にあるアルパジョンで行われた陸上速度の世界記録挑戦会でした。このとき、エルドリッジ卿は236.340km/hを記録したのですが、トランスミッションにリバースギヤが組み込まれていないことを理由に、この記録は公認されませんでした。

そして代わりに優勝したのはフランス人のルネ・トーマスがドライブしたドラージュで、記録は230.643km/hでした。この裁定に納得できなかったエルドリッジ卿は、トランスミッションを改造してリバースギヤを組み込み、6日後に再挑戦。234.980km/hを記録して雪辱を果たすことになりました。

* * *

最後になりますが、フィアット・メフィストフェレスのメカニズムについても少し紹介しておきましょう。搭載していたエンジンは、先にふれたようにフィアット製の航空機用でA12(正確には進化版のA12 Bis)型直列6気筒、液冷のシングルカム(SOHC)24バルブ・エンジンで、ソレックス製のツインキャブを3連装していました。

トランスミッションは前進4速のノンシンクロでしたが、のちにリバースギヤが組み込まれて、ファイナルドライブはチェーン式となっていました。S.B.4のそれを延長したラダーフレームに組み付けられたサスペンションは、前後ともにリーフスプリングで吊ったリジッド式で、それぞれフリクション式のダンパーを装着しています。

ブレーキはリアにドラムブレーキが装着されているのみで、1780kgのボディに対してはストッピングパワー不足が危惧されます。ボディサイズは全長5091mm×全幅1850mm×全高1400mmでホイールベースは3450mmでした。

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