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モノづくりにおいて満足したら終わり。ずっと渇望しているのがいいんじゃないかな【藤壺技研工業 藤壺政宏代表取締役社長:TOP interview】

20代のころから国産旧車の魅力にはまり、自らエンジンを組んでいたという藤壺政宏氏

マフラーといえば藤壺技研

「FUJITSUBO」と聞けば「マフラー」とAMW読者ならば大抵の人が連想するだろう。それくらいにポピュラーな存在となったFUJITSUBOブランド。いまでは自動車メーカーと共同開発したマフラーも手掛けるほどの技術力を持った藤壺技研工業株式会社(以下藤壺技研工業)。そのトップを務めるのは、藤壺政宏氏である。AMWではレースやイベントでその姿をお見かけすることも多い藤壺政宏氏に、NAPAC走行会が開催されている富士スピードウェイにてインタビューすることができた。藤壺政宏氏はいかなる人物なのか、そして藤壺技研工業の「今」に迫る。

藤壺政宏氏の愛車遍歴

自動車アフターパーツ業界には、若い頃からクルマが好きだった、クルマに触れていたという人が多い。藤壺政宏氏もまさにそうした青春を過ごしてきたひとりだ。免許を取得したばかりの10代後半の頃から、地元横浜の峠に毎週通っていたという。当時は峠やゼロヨンが熱かった時代。藤壺氏が通っていたという峠は、横浜にあるゴルフ場の間を縫うような3km弱のルート。高校生の頃には放課後に遊びに行くといったノリだったそうだ。青春時代からどれだけクルマ漬けの日々であったかがうかがえるエピソードである。

藤壺氏の最初のクルマは、ホンダ「バラードCR−X」。藤壺技研の開発車両だったクルマを譲り受けたものの、雨漏りがひどい状態の個体だった。雨の日はとても乗ることが出来ないようなCR-Xをどうにか修理して、そのCR-Xで藤壺氏のカーライフはスタートをきる。このとき藤壺氏は、株式会社ヨシムラジャパン(以下ヨシムラ)での修行時代。二輪の製品開発部に所属していて、エンジンチューンに携わっていた。そのヨシムラにトヨタ初代「セリカ」(通称ダルマセリカ)に乗っていた先輩がおり、そのダルマセリカとCR-Xを交換したところから、藤壺氏の旧車ライフがスタートすることになる。

「たしか先輩がすでにそのダルマセリカを『イナゴ(1750cc仕様)』にしてたのかな、週末にいろいろ横浜をドライブしていたんです。ちょうど大黒パーキングが盛り上がっているときで、大黒に向かってベイブリッジをカーンッと走らせていたら、ボーンッて、ピストンに穴があいちゃったんですよ。そこから、修理もしなければならないから、だったら2Lまでやっちゃおうということで。それが確か19歳のとき」

エンジンを換装するために買ってきたのはトヨタの「3T-GTEU」エンジン。腰下は3T、ヘッドは2T-Gをそのまま載せて2Lにして組んでいたという。そのダルマセリカに乗っていたときにトヨタ「カローラレビン(TE37)」に遭遇して、TE37に乗り換え。このあたりのエピソードは長くなるので割愛するが、そのTE37に2Lエンジンを載せ替えたりして、峠やゼロヨンなどで楽しんでいたという。そうしたクルマとの生活が25歳くらいまで続く。

先輩の思い出がつまった「RX-7」

令和となってから、にわかに国産旧車ブームに火がついた感じだが、藤壺氏の旧車ライフは今に始まったことではないのがわかっていただけただろうか。最近はボディカラーがグリーンのマツダ「RX-7」(SA22C前期)を購入。自ら積載車のハンドルを握って、福岡からピックアップしてきたという。ボディカラーがレッドのSA(中期)をすでに所有しているのにもかかわらず増車したのは、実は個人的な思い入れが強く影響していた。

「峠の先輩がロータリー好きで、群馬でテクニカルオートワンズというショップをやっていたんです。若い頃からその先輩がSAに乗っていたんです。5年くらい前になりますけど、その先輩が亡くなっちゃって……。ちょうどその頃、ノスタルジック2デイズ絡みでいい個体のSAに出会ったんです。そのクルマに出会ったタイミングと、先輩が亡くなった時期が近かったので、『じゃあもうこれ、僕が買って色々やっていこう』と思い立って、その赤いSAを購入したというわけです」

こうしたSAのイメージが強い先輩を弔うという意味合いと、もうひとつ現実的なSA購入動機があった。それは90年代あたりに藤壺技研がSAのマフラーを廃盤にしており、そのクルマを使って復活させるという目的である。型やジグも全部処分してしまっていたため、現代の技術で新設計させようというプロジェクトを、『ノスタルジックスピード』の誌面の連載に合わせて始めることになる。

このSAのマフラーを現代に蘇らせるというプロジェクトは、雑誌連載のためのコンテンツのひとつだったわけではない。SDGs(持続可能な開発目標)が叫ばれる昨今、藤壺技研としての理念を具現化するという目的もあった。

「最近、地球規模での環境問題がよく話題になりますよね。エンジンからEVへの流れもそのひとつです。でも、いま世界で走っているエンジン搭載車をすべて廃車にしてEVに置き換えるのも、環境に負荷がかかるということを忘れてはなりません。古いクルマを大切に乗り続けることは、環境に負荷を与えないひとつの方法だと思うんです。でも、古いクルマはパーツが供給されないので、日本では車検に通らないという問題があります。そうした古いクルマ、旧車を大切にしている方たちのためにもマフラーを作り続けることは、ひいてはSDGsにつながると思っているんです。まあ、MR2(AW11)やシビック(EF9)のマフラーをいまも作ってくれてありがとう! という声がアメリカのカスタマーからも届くんですが、そうした使ってくれている方たちに喜んでもらえているというのが、実は一番嬉しかったりしますけどね」

先輩の思い出から購入を決意したRX-7(SA)であるが、実はまだ後日談がある。

「僕は前期のSAが好きで──最初に見つかったSAが赤の中期のやつなんですけど、『ホントは違うよね』という感じだったんです。きれいな個体が見つかったんで、まあ、これはこれで置いておくとして、やっぱり前期が欲しくって……。そうしたらこの間九州で前期のSAが見つかったので、自分で引き取ってきたという次第です」

大阪に立ち寄って友人をピックアップ、一緒に九州まで。往路は15時間くらいかかったそうだが、その話をしているときの藤壺氏はむしろ楽しいことを思い出しているときの表情だ。まさしくカーガイである一面が伺えた瞬間でもあった。

ヨシムラでの修行時代

ところで、ヨシムラでの修行を終えて藤壺技研に入社することになる藤壺氏だが、そもそもマフラーに対しての思い入れはあったのだろうか。

「いいえ、それほどでも。ヨシムラにいるときも、『どうせお前、戻ったらマフラーはいくらでもできるだろう』ということで、マフラーには一切触れさせてもらえませんでした。当時は単純にエンジンをやってました。『どうせ帰ってもマフラーしかやることないんだから、違うこと学んで行け』って。このあたりは、まあ、贔屓目に見てくれていたんですよ。普通だったらいきなりエンジンなんて触らせてくれませんから」

ヨシムラでは、「GSX−R1100」「KATANA」などのエンジンを担当。あとヨシムラで製作していたマツダ「NAロードスター」のコンプリートカーのエンジンも担当していたそうだ。それはもう、何機組んだかわからないほどという。バランスどりしただけで、15〜20psパワーアップするのが面白かったと語る藤壺氏だが、繊細な仕事をヨシムラで叩き込まれた時代でもあった。こうしたエンジンをバラして直に触れたということが、いまのマフラーづくりに生かされているのだろうか。

「もちろん、すごく影響してます。仕事の自信がつきましたね、一番は。今でも出来るか? わかりませんが、素組しただけでパワーを上げる自信はあります。そうした自信を持って製品開発などにも発言もできるようになったんで、自分に自信がついたことが一番大きいかもしれませんね。ただ、藤壺技研に入った当初はショック受けましたよ。ヨシムラでミクロン単位の仕事をしていたのに、藤壺技研ではミリ単位の仕事になりましたからね。ヨシムラにいた時から考えると、自分にとっては粗い仕事に映ってしまったんです。それはいまだにそう思いますね。しかし、ミクロン単位の仕事って、マフラーには求められないんです。溶接ひとつで変わっちゃうし。新品でいくらすごい精度のマフラーを作っても、エンジンかけたら熱変形&熱膨張で変わってしまいますからね」

エンジンならではの感覚を大事に、これからも続けます

藤壺技研に入社してからは、横浜の開発部でエキマニを組んだり、東京支店では広報に携わったりしていた藤壺氏。27歳の時には渡米し、現地で広報のような役割を3年ほど担っていた。そうしたアメリカのクルマ文化も直接目にしてきた藤壺氏は、今後のマフラー業界をどのように見ているのだろう。

「EV化してしまったら、マフラーに関わる仕事がなくなってしまうでしょう。でも冷静に考えたらマフラーだけじゃなくて、オイルもエンジンパーツの業界もそうですよね。これは大変なことだなと思います。そこで思い出されるのが、現トヨタ会長の章男さんが言ったことですよね。業界も色んな人のためにこうした産業を残さなければダメだという、ね。エンジンならではの、あの臭くてウルサイのが好きだという感覚。僕らもそうなんですよ。きっと横浜の峠を走っていた頃から、ね。僕はそういう思いでいまやっているので、その感覚は大事にもって仕事しなければならないと覚悟してます。

もちろん、きっとそうした感覚が根付いて残っていくような気がしますね。それがいまの、80年90年代のクルマが盛り上がっていることに繋がっていると思います。やっぱり今のクルマって、手を付けられなくなっているんですね。それに、エンジン組んだりしたい人ばっかりじゃないですか、ここ(NAPAC走行会)に集まっている人たちって。自分ももともと自分でエンジンを組みたいという思いがあるし。自分でエンジンを触って、こうなったらこう変化するんだとか、そういうのを知れたほうが、僕らの年代もそうですけど若い子もこれからクルマに乗る人達もきっと楽しいでしょう。そうしたクルマの業界が残ってくれると嬉しいなと思いますね」

では、藤壺技研としてマフラーづくりのどこにこだわっているのだろうか。

「マフラーづくりのメインテーマってないです、会社として。それよりもクルマの個性に合わせて、それぞれ合わせていくという感じです。コンプライアンスについてもそう、開発メンバーが色々チャレンジして製作して、最終的に僕も含めてみんなで評価して、『よしこれで行こう』となるんです。音についてもそうですし、意匠面についても同様です。ただ昔から言われているのが『藤壺のマフラーはポンとつく』。当たり前のことなんですけど、なかなか簡単に装着できるマフラーはないと言われるので、嬉しいですね」

モノづくりにおいて、渇望し続けなければならない

藤壺技研はNAPACに加盟しています。そこで意識していることは?

「今日の走行会なんかも、僕らはNAPACとして集まってやっています。走行会の大きな目的は、継続的にカスタマーが楽しめるようにすることと、あと業界もきちんと維持できるようにということがありますよね。でもそのためには、認証とか今後のコンプライアンスに則って楽しめるように製品をつくらなければならないと思っています。NAPACとしてもっとそれを団結して、JASMAも新たに加わったことですし、今まで以上にノーマルのクルマだけでなくて、クルマをいじる楽しさを理解してもらって楽しんでもらいたいと思いますね」

最後に、AMW読者へメッセージをお願いします。

「商売っぽくなりますけど、ぜひマフラーも一度交換してみて、乗ってもらって、音が変わったことによる高揚感を経験してもらいたいです。最近はもうパワーだけじゃないと思うんですよ、マフラーに求めるものって。ドレスアップの面も大切ですし。今ならバルブ付きのマフラーもあるので、静かなところではそれでもいいし、ちょっと気持ちの良いところに行ったら、バルブをオンにして開けて、サウンドを聞きながらの走りを楽しんでもらいたいですね」

* * *

二輪の世界からは離れてしまった藤壺氏だが、現在でも毎年モーターサイクルショーには足を運んでいるという。その理由は、お世話になった吉村不二雄氏に会いに行くことと、四輪とは違うレベルでの精度で作られた二輪の製品を直に見て触れて、刺激を受けるためだという。

モノづくりにおいて、「満足したら終わりじゃないですか。ずっとそうやって渇望しているのがいいんじゃないかな」と語る藤壺氏。実はこれも、エンドレスの創業者で今年他界した花里功氏から教わったことでもあるという。先輩をリスペクトする姿勢、それもまた、現在の藤壺氏の人柄を示す大切なファクターなのだろう。

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