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マツダ「サバンナRX−3」と国さん仕様ハコスカが夢の競演!「マツダオート東京」カラーリングが懐かしい寺田陽次郎仕様レプリカとは

マツダオート東京のカラーリングを忠実に再現

STレースに加えてST&GTレースでもツーリングカーの絶対王者に

2023年10月29日に富士スピードウェイで行われた箱車の祭典には、ロータリー軍団が集結しました。今回紹介するマツダ サバンナRX-3の寺田陽次郎仕様レプリカモデルもその1台です。

速さと強さをアピールしていたサバンナRX-3

ツーリングカーレースの最高峰とされていた富士グラン・チャンピオン(GC)シリーズのサポートレースが、富士スーパー・ツーリング(ST)レースです。1972年の第4戦・マスターズ250kmでスカイラインGT-Rを降して増田建基選手が優勝し、最終戦の富士ビクトリー200kmでは従野孝司選手が優勝。着実にポイントを重ねていった岡本安弘選手がシリーズチャンピオンに輝いています。

さらに富士ツーリスト・トロフィーでは岡本/寺田陽次郎選手組が優勝し、レーシングカーとの混走となった鈴鹿グレート20レースでも従野選手が総合4位/ツーリングカー・クラス優勝。従野選手は全日本ドライバーズ選手権のT IIクラスでチャンピオンに輝いています。このように1972年のシーズン後半になるとライバルで、それまでのチャンピオンだったスカイラインGT-Rを全く寄せ付けず、サバンナRX-3は完璧な王者となっていました。

サバンナが王座に就いてから、1973年シーズン以降は富士GCのサポートレースとして開催されたSTレースは、事実上のワンメイクとなっていきました。さらにメインレースのGCがオープン2シーターのレーシング・スポーツ(グループ6)に制限され、これによってGCから弾き出される格好となったGTカーの240Zを編入させたST&GTレースにおいても圧倒的な強さを見せ、“格上”たる240Zを駆逐してしまいました。

そして1978年に柳田春人選手がダットサン280Zを投入してチャンピオンが奪回されるまで、サバンナRX-3がSTレースを席巻し続けることになりました。280ZはGTカテゴリーのクルマですから、サバンナRX-3がツーリングカーの王者であったことには揺るぎがありません。

実際、280Zを駆る柳田選手にST&GTのタイトルを奪われた1978年シーズンも、富士スピードウェイの500km/1000km/500マイル、鈴鹿サーキットで開催された500km/ダイヤモンド500km/500マイルといったメジャー耐久レースにおいて、レーシングカーに混じって奮闘。ツーリングカーのクラス優勝はもちろん、総合でも上位に進出していました。また、耐久レースだけでなくST&GTで5戦中2勝をマークし、JAF富士グランプリでも優勝を飾るなどスプリントレースでもライバルを一蹴してみせて、速さと強さをアピールしていました。

TSからシルエットフォーミュラ、そしてRX-7に

サバンナRX-3が強すぎたことで参加台数も減少傾向にあったST&GTレースですが、これを再び盛況化させるべく、主催者は1979年シーズンからST&GTレースをスーパー・シルエット(SS)として再スタートさせることになりました。当時、世界的にも隆盛の様相を呈していたシルエットフォーミュラ(グループ5)カテゴリーの規定を導入することになったのです。

といっても、当時の国内には純粋なグループ5カテゴリーの競技車両などはなく、プライベーターがサバンナRX-3に、2代目ルーチェのGTシリーズに搭載されていた654cc×2ローター(1308cc。ロータリー換算で2616cc)の13Bエンジンを搭載。より太いタイヤを装着するためにより大きく、エアロ効果を持たせたオーバーフェンダーやエアロパーツを組み込んだ“お手製”のグループ5車両が続々と登場してきました。その真打と呼ぶべきマシンは、この年からマツダスピードを名乗るようになったマツダオート東京が1977年に製作したサバンナRX-3 251です。

ネーミングの由来はツーリングカー(グループ2)をベースにシルエット・フォーミュラ(グループ5)に仕立てた第一世代、を意味しています。マツダスピードとしては、ル・マン24時間レースに再びチャレンジするための習作だったのですが、TS仕様、つまりSTレースなどに参戦していた車両をもとに、フロントのオーバーフェンダーと一体式のノーズカウルとリアのオーバーフェンダー、そしてリアウイングと垂直尾翼などのエアロパーツを自製して組み立て、300psを発生する機械式インジェクション仕様の13Bエンジンに換装して1977年7月の富士500kmでデビューしています。

この時は冷却系のトラブルからオーバーヒートでリタイアとなっていましたが、同年12月に行われた富士500マイルでは堂々6位入賞を果たし、RX-7をベースとしたマツダRX-7 252iへと発展。1979年のル・マン24時間に再チャレンジすることになりました。その後、国内レースにおいてサバンナRX-3は、プライベート主体で1980年代序盤まで活躍しましたが、次第にサバンナRX-7に置き換えられ、RX-3は姿を消していったのです。

そんなプライベートのレース活動を支援してきたのがマツダスピード(旧マツダオート東京モータースポーツ課)でした。マツダのスポーツコーナーとしてマツダオート東京に設置されたのは1968年のこと。それ以降ファミリアプレスト・ロータリークーペからカペラ、サバンナ、サバンナRX-3、サバンナRX-7。車種は変われどプライベートドライバーを支援しながら、それと並行してグループ5の25Xシリーズ、そしてグループCカーによる1991年のル・マン優勝まで、マツダ・ワークスと共に戦っていきました。

まだマツダスピードを名乗る前の1976年には、前年までのカラーリングを一新。ホワイトボディのノーズからサイドボディにかけてレッド&ブルーのストライプが走り、サイドビューでは赤いストライプがマツダオート東京(モータースポーツ課)のMをあしらったデザインは、以後彼らのステイタスとしてサーキットに彩を添えることになり、RX-3 251もこのカラーリングで登場していました。

今回の6号車は、このマツダオート東京のカラーリングを忠実に再現。当時を知るファンからは温かな歓声が聞こえていました。

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