新車価格は標準ビートルの16倍以上!広告塔として製作された
「モントレー・カーウィーク」で開催されるオークションのひとつ、RMサザビーズ北米本社主催の「Monterey 2025」が、8月13〜16日にモントレー市内で開催されました。そのなかで、明らかに変わり種ともいえる1台が内見会場を飾っていました。今回は、フォルクスワーゲン「タイプ1ビートル」をベースに製作され、波乱万丈の生涯を送ってきた伝説のリムジンを紹介します。
アメリカ西海岸の正規ポルシェ/VWディーラーのオーナーが製作を依頼
この1969年型フォルクスワーゲン「ビートル リムジン」は、著名なポルシェ/フォルクスワーゲン正規ディーラーのオーナーで、アマチュアレーサーとしても名を馳せたジョン・フォン・ノイマンの依頼によって製作された。その異例な豪華さから、『フォルクスワーゲン・オブ・アメリカ』が『3万5000ドルのビートル』というタイトルの全国的な印刷広告を掲載するきっかけにもなった。
その広告には「Have we gone stark-raving mad(私たちは正気を失ったのでしょうか?)」というコピーが、大きな車両の画像の下に書かれている。そしてショーファーのようなコスチュームに身を包んだ男が、リムジンの背後に立ちドヤ顔で顎を高く上げている。そして2行目には、
「ノー。でも、このクルマがロサンゼルス国際自動車ショーに展示されていると聞いたならば、誰もがそう思うことでしょう」
と続いている。
フォン・ノイマンが1960年代後半に、2063ドルのフォルクスワーゲン ビートルを3万4499ドル95セントで豪華なストレッチリムジンに改造させた正確な理由は謎だ。ちなみに、当時の北米におけるランボルギーニ「ミウラ」の価格は2万ドルだった。しかし、ヒストリーファイルの文書は、宣伝が理由だったことを示唆している。
ウィーン出身のオーストリア系移民で、父親が第二次世界大戦前に家族をカリフォルニアに移住させたフォン・ノイマンは、西海岸の自動車レース界で影響力のある人物だった。彼はまた、ポルシェとフォルクスワーゲンのアメリカにおける初期の成功に、重要な役割を果たした。彼は1950年代半ばに、西海岸およびハワイの公式販売代理店として『パシフィック・フォルクスワーゲン・インク(Pacific Volkswagen, Inc.)』を設立。この事業のために『ロールスワーゲン(Rollswagen)』と名付けられた車両が注文されたことが、のちの1977年のフォルクスワーゲン公式プレスリリースで配信されている。
ホイールベースを1m延長して車重は180kg増加
『フォルクスワーゲン・クラシックパーツ』発行の証明書によると、元来このVWビートルは1968年10月8日に製造された車両だ。「ブラック」のボディに「ガーラ・レッド」のレザレット・ビニール内装、1.5Lのフラット4エンジンを搭載したスタンダードのタイプ1ビートル1500として、まずはルイジアナ州ニューオーリンズに納車された。
しかし、納車早々にカリフォルニアへと輸送され、「スカラブ(Scarab)」や「シャパラル(Chaparral)」といった伝説的なレースカーのボディワークを担当した、カルバーシティのコーチビルダー『トラウトマン・バーンズ(Troutman-Barnes)』に委託。同社の尽力でホイールベースを約1m延長し、全長は5.15mという印象的な威容を誇ることになった。
この一連の大改造を経て、トラウトマン・バーンズ工場から出荷される際にも、外装周りがフォルクスワーゲン本社の作のように整っていたのは、可能な限り本物のVW純正部品を使用していることに起因している。カスタマイズされたリアドア(フロントドア同様、前方に三角窓がある)やランニングボードも、すべて純正パーツがベースとされていた。
また、1969年10月20日付の仕様書『VW Limo for L.A. Auto Show』には、南カリフォルニアのホットロッドシーンの重鎮2名が、このリムジンの製作に貢献したことが記載されている。LA近郊の『ジュニアズ・ハウス・オブ・カラーズ(Junior’s House of Colors)』がボディペイント、有名なホットロッダー兼ドラッグレーサーのトニー・ナンシーが内装を担当した。
リムジンの伝統的様式にしたがって、後部座席にはボタン留め装飾を施したグレーのイングリッシュブロードクロス、電動パーテーション(仕切り窓)の反対側に置かれた前部座席にはブラックのビニールが使用されている。純正のスチールホイールは、ワイド幅のリムを取り付け、研磨してポリッシュ仕上げとされた。
さらに、48mm径のウェーバー製ダウンドラフト式キャブレターを備えた、より高性能な1600ccの空冷フラット4ユニットが、リムジン化と豪華な内装によって加わった180kgの追加重量を補う、重要な役割を担った。
オークション出品にあたって添付されたヒストリーファイルには、マホガニー材のトリム、折りたたみ式のジャンプシートに挟まれたミニバー、インターコム、カセットプレーヤー付き5スピーカーの『フィリップス』オーディオシステム、防音設備、パワーウィンドウ、そして「ドアマンに合図を送る」ルーフのキャリッジランプが装備されたことも記載されている。その後、このリムジンはリアコンパートメントに『ケンウッド』のヘッドユニットとCDチェンジャーが搭載されるなどのアップデートが施された。
ちなみにヒストリーファイルの注記には、名優ジョン・ウェインが、映画『勇気ある追跡(原題:True Grit)』で最優秀主演男優賞を獲得した1970年のアカデミー賞授賞式にて、彼の送迎に『ロールスワーゲン』が使用されたと記載されているが、この情報についてはカタログ作成時点では裏づけが取れていなかった。
伝説に相応しいとはいえ落札予想価格の1.6倍に
このVWリムジン『ロールスワーゲン』はPR活動のツールとして活躍しただけでなく、1971年9月号の『デューンバギーズ&ホットVWs』の表紙を飾るなど、それ自体が有名になっていった。
しかしその翌年、フォン・ノイマンは『VWオブ・アメリカ』に販売代理店権と『ロールスワーゲン』の所有権を売却。ファイルに保管されている登録カードでも確認されているように、1974年以降はカリフォルニア州ベンチュラのVW正規代理店『マスターソン・モーターズ』で展示されることになった。
『VWオブ・アメリカ』は1977年までこの個体をプロモーションに活用し続けたが、前述のプレスリリースで示されているように、1979年1月に秘匿性の高い「シール(密封入札)方式」でオークションに出品することが決定した。ファイルに保存されている書簡によると、このときの落札者はカリフォルニア州で初のVW販売店を経営する、ジョン・ウェインの親しい友人だったチック・イバースンだった。
イバースンはこの『ロールスワーゲン』を1996年まで所有し、その後カリフォルニア州ハーバーシティのVWパーツ供給会社『ウェスト・コースト・メトリック』の創設者である友人ロレンツォ・ピアソンに売却する。それ以来、このビートル・リムジンはピアソンの著名なコレクションのなかに残されており、20年以上にわたる丁寧なメンテナンスが記録された手書きのログブックやサービス請求書から、その価値が十分に評価されていることがわかる。
2025年1月、104歳で逝去したフォン・ノイマンは、VWの広告コピーが宣言するように
「世界でもっとも有名な経済車から世界でもっとも経済的なリムジンへの変身」
を指揮した。
「……なぜ道路上でもっとも節約家なミリオネアにならないのか?子供たちよ、それこそが、富める者がさらに富む方法だ」
今回のオークション出品に際して、RMサザビーズ北米本社は15万ドル〜20万ドルの予想落札価格(日本円で約2210万円〜2950万円)を設定した。そして迎えた8月16日のオークション当日。モントレー市内の大型コンベンションセンター、および今年からは隣接するホテルにも会場を広げて挙行された対面型競売では、順調にビッドが伸びた。結果は予想落札価格の上限の1.6倍にも相当する33万5000ドル。現在の為替レートで日本円に換算すれば約4940万円という、驚きの高価格で競売人のハンマーが鳴らされることになった。
