クルマは“長く育てる”時代へのシフトで新たなる満足が生まれる
レーシングドライバーであり自動車評論家でもある木下隆之氏が、いま気になる「key word」から徒然なるままに語る「Key’s note」。今回のお題は、「トヨタが新車サイクルを延長」です。新車発表サイクルを従来の7年から9年にするということです。一見すると開発ペースが落ちたように見えますが、背景にはクルマをソフトウエアで進化させる「SDV」という新しい考え方があります。エンジン制御や安全機能をアップデートできるため、ひとつのモデルを熟成させることが可能になりました。ユーザーにとっても納車遅れによる“旧型化”を防ぐメリットもあります。スープラのように、モデル後期でも走りを磨き上げる取り組みこそ、9年サイクル時代の価値を示していると言えます。
クルマがアップデートできるプロダクトへと変貌を遂げた
トヨタ自動車は、主力モデルの新車販売サイクルを、これまでの平均7年から9年に延長すると発表した。一見、開発のペースダウンと思われるかもしれない。しかし、その裏には、クルマづくりの根幹が変わりつつあるという時代のうねりがある。
かつて、フルモデルチェンジの周期は4年が当たり前であった。2年目にマイナーチェンジを実施し、内外装を小改良してモデルの鮮度を保つことが、一般的な手法だった。
しかし、技術の進歩が成熟期に入ると、燃費や安全性能、そしてデザインも高次元で拮抗するようになる。ただ形を変えるだけでは、ユーザーの心を動かせなくなった。
そこに登場したのが、「ソフトウエア定義車両(SDV)」という新たな概念だ。ハードウェアとしてのクルマをイチから作り替えなくとも、ソフトウエアのアップデートによって走行性能や安全性を進化させることができる時代になった。言い換えれば、クルマが“アップデートするプロダクト”へと変貌を遂げたのである。
スマートフォンのように、通信を介してエンジン制御やADAS(先進運転支援システム)のアルゴリズムを最適化できる。販売店でのソフト更新や、オンラインでのOTA(Over The Air)によるリフレッシュが可能になれば、モデルの寿命は一気に延びる。トヨタが9年周期に舵を切ったのは、決して保守的な判断ではなく、むしろ未来への布石である。
この延命は、ユーザーにとっても利点が多い。人気モデルに注文が集中した結果、納車が1年遅れ、いざ受け取った時には旧型になっていた──そんな悲劇を防ぐことができる。販売サイクルの長期化は、生産の効率化だけでなく、オーナーの満足度を高める一手でもある。
理想の走りを求めモデル末期に足まわりとボディをリファインしたA90型スープラ
もっとも、延命とはいえ「時間稼ぎ」ではない。むしろ「熟成」の時間が与えられたと見るべきだ。現行A90型スープラは、その最良の例である。
2019年のデビューからすでに6年の年月を重ねているが、2025年初頭に施されたマイナーチェンジは、単なる化粧直しではなかった。サスペンションのダンパー特性を一新し、ブッシュ剛性を高め、車体の結合剛性そのものをチューニングした。電子制御デフの制御プログラムも見直され、ステアリング初期の応答に軽快さが増している。つまり、外観の“衣装替え”よりも、足もとからのリファイン──中身の美学を磨いたのだ。
本来、こうした大掛かりな改良はフルモデルチェンジ時に行うものだ。だがトヨタは、あえてモデル末期のA90型に情熱を注ぎ込んだ。「ファイナルエディション」として限定販売されるモデルに、これほどの手間とコストを掛けるのは異例中の異例である。通常なら「もうすぐ消えるモデルに投資するなんて」と止める声が上がるはずだが、トヨタはその声に屈しなかった。
その背景にあるのは、スポーツカー文化への確かな敬意であろう。内燃機関(エンジン)を搭載するスポーツクルマが歴史の幕を下ろしつつあるなかで、最後まで理想の走りを追求する姿勢は、単なる企業努力ではない。これは“情熱の証明”である。
試乗してみると、その情熱が手に取るようにわかる。路面の凹凸を柔らかくいなし、サスペンションが滑らかに動く。以前はやや硬質だった乗り味が、絶妙な粘りを伴ってしなやかに変化している。ステアリングを切り込んだ瞬間、前輪が素直に路面を捉え、後輪が自然に追従する。電子制御が巧みに働き、かつそれを感じさせない自然さがある。これこそ、ソフトウエアとハードの融合がもたらした進化の形だ。
思えば、モデルチェンジの頻度を競い合っていた時代から、いまは「どう長く愛されるか」が問われる時代へと移行した。9年という歳月は、単なる販売戦略ではない。進化し続けるソフトと、磨き上げられたハードが共存する、新しいクルマ文化のはじまりなのだ。トヨタの決断は、スピードよりも深さを選んだと言える。9年サイクルの向こうにあるのは、きっと“時間に耐える名車”という、新しい価値観だろう。トヨタのクルマづくりは、いま静かに、しかし確実に、次のステージへ進もうとしている。
