自動車版“ウドゥン・ワンダー(木の驚異)”!
2025年9月に英国の名門オークショネア「ボナムズ」社が開催した「Goodwood Revival Collectors’ Motor Cars and Automobilia 2025」。そこには木製シャシーを持つ異色のレーシングカー、コスティン「ネイサン」が登場しました。航空技術を背景にした独自の軽量構造は、小排気量ながら数々のレースで結果を残した実績など、まさに第2次大戦勃発直後の木製戦闘機「ウドゥン・ワンダー」を彷彿とさせるモデルです。レース界の鬼才が生んだ“木製レーシングカー”は、なぜ今も特別視されるのか。その背景を追いました。
鬼才フランク・コスティンが構想した超軽量モノコックマシンの誕生
コスティン「ネイサン」は偉大なレーシングエンジニア、フランク・コスティンの作風を、ある意味もっとも象徴するモデルのひとつだ。コスティンは英国の航空機メーカー「デ・ハヴィランド」社の空力技師から転身し、レーシングカーのボディスタイリスト兼構造技術者として名を馳せた。
まずはロータスのもとで画期的な超軽量かつ空力ボディスタイルを確立。そののち、1958年にF1史上初のコンストラクターズチャンピオンを獲得した「ヴァンウォール」のため、伝説的なティアドロップ(涙滴形)デザインを提唱した。ル・マン参戦のマセラティ「450S」クーペなど、さまざまなコンストラクターのもとで意欲的な作品を上梓したのち、ジム・マーシュと共同で「マーコスGT」シリーズを完成させた。
「マーシュ(MARsh)」と「コスティン(COStin)」のタッグで「マーコス(MARCOS)カーズ」を生み出したのである。さらに、1965年から1966年にかけて、フランク・コスティンは真の超軽量レーシングカーを構想した。ミッドシップ配置を採用し、ベニヤ板を組んだ木製シャシーとFRPボディシェルを設計した。ロータス「エリート」のレーシングドライバーとして成功を収めたロジャー・ネイサンが、大幅な改造を施した「ヒルマン・インプ」の水冷直列4気筒SOHCエンジンとトランスアクスルを提供し、彼らはプロジェクトパートナーとなり、コスティンの最新コンセプトを生産へと導いた。
3.18kg/psと驚異のパワーウェイトレシオのGTクーペ開発
当初は2台のオープンモデルのコスティン ネイサンが製造され、ロジャー・ネイサンは自身のマシンで国際レベルに至る大きな成功を収めた。この成功に触発され、コスティンとネイサンは1967年シーズン向けに、この「GT」クーペバージョンを開発した。このニューマシンは、同年1月の「ロンドン・レーシングカーショー」で発表された。
木製モノコックシャシーは、木製ボートの品質基準を満たしたガボン産オクメ合板で形成され、コスティン=ネイサン社では10年間の保証を付与した。そのねじり剛性値は、当時としては極めて高い数値だった。
チューブラーサブフレームがフロントとリアのサスペンションを支え、当初は110ps/1Lまでチューンアップされたヒルマン インプエンジンが、2基のツインチョーク・ダウンドラフト式ウェーバー社製キャブレターとともにミッドシップに搭載された。そして、ジャック・ナイトが開発した5速のインプ用ギアボックスを介して後輪を駆動した。オリジナルのコスティン「ネイサン インプ」は、エンジンユニット全体の重量77kgを含めても350kgという超軽量を達成した。この超軽量に対し110psを発生した結果、非常に高いパワーウェイトレシオを誇った。
ル・マン挑戦と国際耐久レースでの快挙
オープンコックピットのコスティン「ネイサン」は、英ブランズハッチでレースデビューした。そのシーズンは6つのイベントに出場し、ロジャー・ネイサンは5勝を挙げた。彼は1967年のル・マン出場を熱望し、そのためにコスティン「ネイサンGT」が誕生した。プロトタイプ第1号車はル・マンのわずか3週間前に完成し、24時間レース前のスネッタートンでのテストは1度きりとなった。
それでも、前シーズンから使い古しのエンジンを搭載したコスティン ネイサンGTは、大きなトラブルもなく75周を完走し、ロジャー・ネイサン、マイク・ベックウィズ、フランス人ドライバーのフランク・ルアタで構成されたチームは、ラップレコードを更新。ところが、同じドライバー陣で臨んだ肝心のル・マンでは、最初の練習走行でエンジンがミスファイアを起こした。
そして、4時間を走った段階で点火系のトラブルによりリタイアとなった。ルーカスの配線ハーネスに欠陥があったほか、ウェーバーキャブのフロートバルブニードルスプリングも破損していたのが原因だ。その後、オープン版のコスティン ネイサンは、仏モンレリーで開催された「クープ・デュ・サロン」にて、この時代の耐久レース小型車カテゴリーにおいて最強を誇っていた「フィアット・アバルト」ワークスチームを圧倒した。
これは旧約聖書に登場する巨人ゴリアーテに立ち向かうダヴィデ少年のような勝利であり、国際的な名声を得た。また、コスティン ネイサンGTも、翌1968年の「パリ1000km」レースで輝かしい成果を挙げた。とくに1968年9月の「ニュルブルクリンク500km」レースでは、ラップレコードを更新するとともに、所属するクラスで優勝した。60台以上がエントリーしたなかで最小排気量の車両でありながら、驚異的な総合8位でフィニッシュしたのである。
さらにこのレースでは、2台のネイサンGTがプライベートエントリーで参戦し、そのうちの1台はロジャーに1周遅れでクラス2位となった。また1968年シーズンには、コスティン・ネイサンGTはふたつの英国国内選手権(モータリング・ニュースGT選手権とトゥータル・メンズウェアGT選手権)を制した。
その後、複数のプライベートドライバーに販売されたコスティン・ネイサンGTは、さまざまなエンジンを搭載した。1968年と1970年のニュルブルクリンク1000kmでは1.3Lのフォード・コスワース・ユニット(フランクの弟マイク・コスティンが創業)、1970年のジェニー・デルのマシンには2LのBMWエンジンも搭載された。
さらに、1968年のル・マン24時間レースに出場した「モイネ・シムカ(Moynet-Simca)XS」は、コスティン・ネイサンのモノコックシャシーを採用し、シムカ4気筒エンジンと新規デザインのボディカウルを組み合わせていた。
このクルマの製作者がオークションで落札して修復
ロジャー・ネイサンのロンドン工場では、計18台ほどのコスティン ネイサンが製造されたといわれている。このほどボナムズの「Goodwood Revival Collectors’ Motor Cars and Automobilia 2025」オークションに出品された個体は、公式オークションカタログによると2018年にオークションで登場し、このマシンの作り手のひとりであるネイサンが落札することに成功した。
その後、害虫による木製モノコックの軽微な虫食い修繕を含む大規模な修復が施された。そののち、彼はこのマシンをブランズハッチ・サーキットにて大規模なトラックテストに駆り出した。そこは1960年代初頭、ネイサンが若きロータス エリートのドライバーとして輝かしい成功を収めた、思い出のレーストラックである。その後、このコスティン・ネイサンGTは、シルヴァーストーン・サーキット敷地内に置かれた巨大モータースポーツ博物館「シルヴァーストーン・ミュージアム」に非常設ながら展示された。
イギリスの自動車レース史を飾ってきた珠玉のコレクションが並ぶ同館において、このマシンはとくに希少かつ特異な存在として際立っていた。そして、同じ公式カタログにおいて「世界中の主要な国際歴史的レースイベントを飾るにふさわしい、驚くほどハイテクな空力設計の傑作として、本車両を最優先でご検討いただくことを推奨する」とPRされるとともに、12万ポンド~14万ポンド(邦貨換算約2420万円〜2830万円)というエスティメート(推定落札価格)が設定されることになった。
ところが、9月13日のオークション当日、グッドウッドの広大な荘園内の特設会場で開催された競売では、ビッド(入札)が期待したほどには伸びず、「流札」となった。現在ではボナムズ社の営業部門による個別販売が継続しているようだ。
