スカイラインの聖地たる村山工場! 櫻井眞一郎が熱き職人魂を語る
没後15周年を迎えた「スカイラインの父」こと故・櫻井眞一郎氏。生前のインタビューをもとにした特別寄稿の第7回は、クルマ作りから話題をがらりと変え、プリンス自動車の主力工場であった村山と荻窪の思い出について回想してもらった。初代プリンス「スカイライン」から開発に携わり、2代目の「S50型」から7代目の「R31型」の途中まで長きにわたり開発責任者を務めた櫻井氏がこの世を去ったのは、2011年1月17日のことだ。没後15年という節目を迎えるにあたり、本稿ではその言葉をあらためて紐解いていく。まずは、スカイラインの生産拠点であった聖地「村山工場」の記憶から辿っていくこととしよう。
名実ともにプリンス自動車の心臓部! 村山工場の歴史を振り返る
「あの工場のことを思い出すと、自然とスカイラインの顔が思い浮かびます」
プリンス自動車工業の乗用車専用工場として、1962年に東京都武蔵村山市に造られた村山工場。ここは単なる生産拠点ではなく、プリンス自動車そのものであり、同時にスカイラインの歴史そのものであった。1966年に日産自動車と合併してからは日産の工場となったが、少なくとも1960年代半ばまでは、名実ともにプリンス自動車の心臓部というべき主力工場として稼働していたのである。
村山工場で最初にラインを流れたのは、フラットデッキ・スタイル(水平基調のデザイン)を採用した2代目プリンス「グロリア」であった。そして、スカイラインも2代目のS50型から村山で生産されるようになったのである。ちなみに初代スカイラインは三鷹工場で生産されていたため、村山工場の完成はプリンス自動車にとって大きな転換点であった。
村山工場ができたことで、バンを含めた乗用車の生産はすべて村山に集約され、三鷹工場はトラック専門へと変わった。ところが日産と合併すると、今度は日産「クリッパー」や日産「マイラー」、日産「ホーマー」といった商用車種まで村山に移管されてきたのである。さらに後には、エンジンの主力工場まで村山に移ることとなった。それまで4気筒エンジンは杉並区の荻窪工場で製造していたのだが、車体やエンジンを含めて、プリンス自動車の生産部門のすべてが村山を中心とするようになっていったのだ。
スカイラインは村山工場以外では製造できなかったと言い切る理由
また、村山工場には、敷地の西側に当時としては東洋一と言われる規模を誇ったテストコースが併設されていた。歴代の日産 スカイラインはもちろん、日産「R380」をはじめとする純レーシングカーたちも、すべてあそこで鍛え上げられたのである。
とくに村山工場を象徴する車種である日産「スカイラインGT-R」は、ベテランの技術工が1台1台、手を抜かずに仕上げていた。レース車両については「村山部隊」と呼ばれる専任のチームが徹底的にチューニングを施して、とにかく勝てるクルマに仕上げたのである。
このように村山工場には、数え切れないほどの思い出が詰まっている。櫻井氏は「スカイラインというクルマは、村山工場以外では設計できなかった」と考えていた。それくらい、他の工場とは違う特別な空気が流れていたのだ。
工場長から現場の職人に至るまで、全員が「いいクルマをユーザーに届けたい」という思いに徹していた。それは設計担当とまったく同じ方向を向いていたのである。「荻窪で設計している人間と、村山の現場は、考え方が同じ」という意識がとても強かったのだという。
「設計の荻窪」と「工場の村山」との絶大な信頼関係がいいクルマ作りへとつながった
普通、発表日や発売日が決まっていて時間がなければ、一般的な工場なら改善は見送られてしまう。分かっていても設計変更はしないのが一般的である。
しかし、村山工場は違った。
「しょうがねえな。櫻井のわがままを聞いてやるか、直してやるぞ!」
そう言って、不可能だと言われていたことまで、最後の最後で直してくれたのである。村山の人たちは、ギリギリまでクルマをよくしようとあがき続けていた。ユーザーにとっていいことだと判断すれば、夜中でも手を入れる。その姿勢は本当に素晴らしいものであった。だからこそ、設計側も本音で意見を言えたのである。絶大な信頼関係があったからこそ、遠慮なくぶつかり合うことができたのだ。
ただ、村山の人たちも、黙って言われた通りに作るような従順なだけの人たちではない。
「次は、こういう設計にしてくれよ!」
そんなふうに、忌憚なく意見をぶつけてくるのだ。工場のレイアウトを変えるときなどは、荻窪の設計部の人間も呼ばれて意見を交わしたという。これは当時としては相当異色なことであった。
荻窪でも車両担当が、他部署のカムシャフト(エンジンの吸排気バルブを開閉する軸)の設計に意見を言うこともあった。それくらい、自由な気風に満ちていたのである。この空気は、村山工場だけでなく、プリンス自動車全体に流れていた貴重な財産であったのだ。
