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「六本木のカローラ」や「小ベンツ」には「モテ度」で完敗…女史に不人気だったマセラティ「ビターボ」の甘い思い出とは?【ぼくたちのバブル考現学:第三話】

1987年9月7日に納車された日の筆者とマセラティ「ビターボ」

マセラティ・ビターボの甘く苦い思い出

輸入車のことを「外車」と呼んでいた80年代バブル期。「ワンレン・ボディコン」スタイルの女性が増殖し、彼女らのいわゆる下僕が「アッシー、メッシー、ミツグクン」と呼ばれていた時代です。このバブル時代にモータージャーナリストになった青山尚暉さんが、当時のことをクルマを交えて振り返る「ぼくたちのバブル考現学」。第三回は血中イタリア度が高かった時代に所有していたマセラティ「ビターボ」のお話です。

クルマ人生を変えたイタ車

バブル景気に差しかかりつつあった1987年(昭和62年)、ボクのクルマ人生を大きく変えたクルマと出会うことになった。そのクルマは、当時、ガレージ伊太利屋が輸入、販売していた、アレッサンドロ・デ・トマソが80年代に企画したマセラティ「ビターボ」である。「ビターボ2.5」、車両形式E-331BOOは全長4150mm×全幅1715mm×全高1305mm、ホイールベース2515mmというコンパクトな2ドアセダンであり、その前に乗っていたBMW「325i」、つまりBMW「3シリーズ」のライバルクラスとしてイタリアから登場した左ハンドルの1台だった。

80年代後半のバブル景気の後押しと、比較的廉価な価格(500万円台)もあって、日本でも大ヒットしたことを覚えている。ガレージ伊太利のあった世田谷区では、当時、数多くのビターボを見かけたのも本当だ。

愛車となったダークスモーキークォーツと呼ばれるブラウン系の美しいボディカラーを纏ったビターボ2.5のエンジンは2.5L SOHC水冷90度V6、石川播磨重工業(現IHI)製ツインターボ、200ps、30.8kgm(DIN)。トランスミッションは5MTであった。ブレーキは前後ディスク、サスペンションはFストラット、Rトレーリングアーム。タイヤは195/60R14。マセラティが示す性能は最高速度215km/h、0-100km/h加速6.5秒、0-400m加速14.7秒。

当時のボクの手記によれば「それにしても、刺激的なクルマだと思った。フル4シーターのボディに、過激なパワーユニットと、ウッドがふんだんに使われた、エロティックと品位の狭間にあるとも表現できる豪華なインテリアを備え、街ですれ違うことが少ない、国産車とはもっともかけ離れた、個性と刺激の塊のような存在だ」。

「アイドリングからシュイーンとばかりに軽快に回るV6ツインターボは4000rpmあたりから、鳥肌モノの加速を開始。その回転域からは、緻密なメカニズムが発する音と振動のすべてが1本の太い帯となって、完全に調律された大聖堂のパイプオルガンが、単音を徐々に重ねつつ、クレッシェンドし、高質な和音を奏でるかのような、一気にクライマックスへと導かれるサウンドを響かせるのである」。

イタリア車に、マセラティに心酔した感のある、自分に酔った表現でもあると、今は思えるのだが、それぐらい、マセラティのオーナーになるということは、当時、極めて特別なことでもあったように思う。なお、マセラティ ビターボを愛車に迎えるにあたって、自動車専門誌の「ドライバー」で、「マセラティを待つ00日…」という連載企画も担当させていただき、イタリアのヴェローナ港から船で出航し、日本の港に着き、陸運局でナンバーを取り、改善整備、納車整備の現場までを追ったレポートを書いている。

とにかくトラブルのエピソードには困らないビターボ

しかしながら、振り返ると、マセラティ ビターボは「壊れるクルマ」という不名誉な俗説を得てしまったクルマでもあった(この時代はドイツ車でも壊れたものだが)。

何しろ、ガレージ伊太利屋で新車を引き取り、慣らし運転のため、雨の東名高速で京都に向かう途中、助手席に乗っていた彼女が「なんか前から火が出た」と口走るではないか。そのとたん、それまで順調に作動していたフロントワイパーがピクリとも動かなくなり、視界はゼロ。サイドウインドウを開けて前方視界を確保しつつ、運よく、すぐ先のパーキングエリアにクルマを滑り込ませたのである。

ガソリンスタンドでウインドウ用の撥水剤を買い求めているうちに雨はやみ、無事、京都の辿り着くことができたのだが、原因は新車1日目にしてワイパーモーターの焼き付きであった。それでも落ち込まず、ヘコまず、新車修理で納得できたのは、すでに血中イタリア度がかなり濃くなっていたからだと思う。外食もほとんどイタリア料理店だったぐらいなのである。

しかしながら、冬は一発でエンジンがかからないと、その日は走り出せないなど、トラブルは少なくなかった(所有後期の冬はガレージに預けていた)。決定的と言えるトラブルは、ある夜、山道で起きた。なんだかメーターも前も暗い……。そう、メーター照明、ヘッドライトが付いていないのである。かなり怖い思いをして麓のファミレスの駐車場にビターボを滑り込ませると、エンジンはかかっているものの、電源が消失している。ボンネットを開けると、バッテリーが割れて、バッテリー液が一滴も入っていないトラブルということが判明。もちろん、ガレージ伊太利屋に連絡し、キャリアカーで運んでもらうことになった。

ボクは愛車のほとんどの資料を1冊のファイルにまとめているのだが、納車後半年のクレームとして、エアコン、ヒーターの作動不良、ホイールバランスの不備、読書灯の脱落、クラッチペダルのキシミ、錆の発生……がメモに残っている。

肝心のデートカーとしての資質のほどはいかに?

ところで、80年代後半はバブル景気もあり、外車人気が大いに高まった時代でもあるのだが、それ以前に乗っていたBMW325iに比べ、マセラティ ビターボの女子人気はかなりイマイチだった。

初めてのデートで意気揚々と迎えに行っても、クルマに対する反応はゼロに近かった。ベンツ、BMW、ポルシェあたりは知っていても(あるいは喜んでくれても)、なんだか知らない地味なクルマで来た……ぐらいで、当時の多くの女子の辞書にマセラティのブランド力、三又の鉾の威力はまるでなかったようなのである。新車1日目にワイパーモーターから火が出た時よりヘコむことになったのも本当だ。

とはいえ、美しいボディ、エロティックかつゴージャスなインテリアやエンジンにはぞっこんでい続けられ、90年にデザイナー女史に譲るまで、壊れやすいけれど愛おしい愛車であったのだ。ボクの初めての単行本、愛車のマセラティ・ビターボのエッセイから始まる『ぼくたちの外車獲得宣言』が書けたのも、マセラティ ビターボの所有なしては、あり得なかったかも知れないのである。

こうして、38年も前の1987年に自身が脳内タイムスリップし、当時を熱い気持ちで振り返ることができるのも、マセラティ ビターボの強く印象に残る、甘く、苦い経験がたくさんあったからだろう。それもまた、クルマ人生の1ページである。

 >>>連載「ぼくたちのバブル考現学」をまとめて読む

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