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アンチ日産「スカイラインGT-R」のチューナーが出会った運命のR32とゼロヨン人生

千葉代表が手塩にかけたR32GT-R

チューナーの心に残る厳選の1台を語る【スクリーン 千葉 弘代表】

 忘れかけていたドラッグレースの高揚感を思い出すきっかけを作ってくれた1台。時間が経ってもまるで昨日のことのように再現できたのは身体に染み込んでいた記憶ばかりではなく、久々に共に戦ったクルマとの相性のよさが大きかった。宮城県のプロショップ『スクリーン』の千葉 弘代表が今でも忘れられない1台について語る。

(初出:GT-R Magazine 154号)

幼いころから重機やバイクに心を奪われた

「祖父が重機のオペレーターをやっていたので、小さいころからブルトーザーやシャベルカーなどに接していました。建設車両は幼心に戦隊ヒーローの乗り物とカブってワクワクするんです」と幼少期の思い出を語ってくれた『スクリーン』の千葉 弘代表。不思議と父親はクルマには興味がなく、物心がついたときから自分で操れるものに夢中だったのは祖父の影響。隔世遺伝のようだ。

 宮城の豊かな緑に囲まれた環境で育った千葉代表は、昆虫や魚を採って大自然に触れながら成長していったのかと思いきや、現実はちょっと違う。たしかに大自然の恩恵は受けていたが、一風変わっている。

「豊富に遊び場があったので、小学校に入学するころからポケバイで走り回っていたのです。しかも小学2年生でポケバイは卒業して50㏄のギヤ付きバイクを楽しむようになりました」

 クルマのほうも早熟で17歳でDR30の赤黒を購入。もちろんテレビドラマ「西部警察」の影響だ。仮免の合格と同時に修理工場で働く8歳上の先輩に手伝ってもらってFJ20を降ろしチューニングを行った。

「当時、ハコスカGT-RのS20をイジって乗ってた先輩は、仕事とは別にプライベートでチューニングしていたので、時間があると覗きに行っていたんです。だからチューニングは身近な存在。自分の初めての愛車にも施そうと決めていました」

免許取得と同時にエンジン完成からゼロヨンへ

 正式に免許が取れるタイミングに合わせてエンジンを完成させるという手際のよさも先輩のアドバイスだ。主な仕様はトモエの2mmオーバーサイズピストンで2.2Lに排気量を上げ、ポートやコンロッドをピカピカに研磨した。インジェクションを44Φのソレックスに変更し、タコ足とマフラーはトラストを選択。農家を営む実家の納屋が作業場だ。

 完成後すぐに仙台新港のゼロヨン会場へ腕試しに出向く。先輩に手取り足取り教わったので、同じような仕様のDR30には勝てた。気をよくしてさらに74度のハイカムも導入。しかし、これが思いのほかセッティングが決まらず、散々カブらせた。それだけカムは効果があるということを実感した瞬間である。

 免許取り立てで、すでにチューニングとゼロヨンにどっぷりとハマった千葉代表。当時の仕事はスズキのディーラーメカニックで、日々さっさと仕事を切り上げて納屋に籠もってチューニングに明け暮れていた。

 4気筒ならではの瞬発力が魅力のFJ20ではあるが、どうしても3Lクラスのクルマには敵わない。そこで1年後にはS130Zに乗り換えた。エンジンもL20からL28に載せ換えて、最初はソレックス44Φの3LでNAの250ps仕様。その後、3.1Lにスケールアップしてソレックス50Φを組み合わせた300ps仕様にしていった。

アンチGT-Rの精神でチューニングに没頭

 しかしR32がデビューした時期でありNAでは勝算なし。そこでターボ化を決意した。何度か仕様変更を繰り返し、最終的にはTD06ツインで600psをマークしている。結構速かったと千葉代表。

「仙台ハイランドにドラッグコースができた年に、このクルマで11秒3をマーク。初年度のストリートクラスのレコードホルダーを獲得しました。翌年には友人の3.1LのTD08仕様のハコスカにあっけなく抜かれてしまいましたけどね」

 21歳でディーラーを辞めて従兄弟の経営するクルマのパーツ問屋に就職。部品が社販で購入できるだけでなく、最新のチューニングパーツ情報も入ってくるので好都合だった。そのころはS130ZからS13、S14とシルビアを乗り継ぎ、打倒GT-Rを目指してチューニングに没頭。

「じつはアンチGT-Rだったんです。速くて当たり前のクルマをなんとか負かしたい気持ちが強かった。それが原動力となって、チューニングを突き詰めていったのです」

 もはや自分のクルマだけでなく、友人のチューニングも請け負い、確実に趣味の領域を超えていた。正式に仕事にしたのが26歳。実家の脇に工場を立てて『スクリーン』をオープンさせた。その2年後にダイナパックを導入。ここで一気にチューニングの精度が向上した。プロチューナーとしての自覚が揺るぎないものになった瞬間だ。

「アクセルの踏み方やブーストのかけ方など、さまざまなテストが可能になって信頼性が激変。確実に壊さなくなりました」

サーキットに力を入れだしGT-Rの凄味を知る

 GT-Rを手に入れたのは29歳。ずっとゼロヨンばかりだったが、サーキットにも目を向けるようになったことがきっかけだ。R33から始まってR34は3台乗り継いだ。

「周回(サーキット走行)ではハイパワーの4駆が断然有利なもので、GT-Rでサーキットを追求していきました」

 お店のサーキット色がますます深くなっていったころ、ふとR34ユーザーがやってきてゼロヨン仕様のオーダーを受けた。

「私が昔、ゼロヨンに夢中だったことを知っていて、一緒に走りましょう、というお誘いも含めた相談だったんです。忘れかけていた大切なことに気付かせてくれました」

 久々に本気でゼロヨンに挑むことを決意した千葉代表はそのとき39歳。今から12年前の出来事だ。ユーザーのR34とは別に、自分用にもゼロヨン仕様のクルマを仕立てた。ベース車両はR32だ。

「アンチGT-Rと言っておきながらサーキット仕様を作っていたときに、すごさを実感していましたから。なかでも一番軽いR32に決めました」

 チューニングに関しては酸いも甘いも経験済みの千葉代表は、決めた予算内でのクルマ作りを徹底した。そうしないと際限なくエスカレートし、楽しみよりも苦労ばかりが多くなることが明白だからだ。R32はあくまで自分の趣味として取り組む。必然的に費用のかからないシングルターボで攻めた。HKS T51R KAIに組み合わせたカムはIN/EX共にHKSの280度。排気量はそのままでピストンとコンロッドを東名パワードに変更。ヘッドは今までのノウハウを惜しみなく導入する。インジェクターは1000ccを採用しHKSのVプロで制御。そしてHKSのドグミッションをセットする。これでブースト2kg/cm2で約700psという仕様が完成。8500rpmまで淀みなく回る痛快な味付けだ。

 このレベルのパワーだとエンジンやトランスミッションのトラブルも起こらずに手間が掛からない。予算をしっかり決めていたため、コストパフォーマンスに長けた無駄のないチューニングメニューが構築できた。

久々のゼロヨンで確かな相棒になったR32GT-R

「およそ10年ぶりのドラッグコースでしたがブランクは少しも感じずに、やる気だけが漲りました。ツリーを見ていると不思議と何もかも忘れて集中できるんです」

 ドラッグレースは直線を疾走する単純な競技に思えるが、現実はなかなか奥が深い。決められた区間でタイヤを空転させて温める儀式や、間髪入れずに行うシフトチェンジなど、シンプルだからこそ誤魔化しが効かずに力の差が露骨に現れる。とくにスタート時は顕著だ。シグナルの一番上にあるプレステージランプを対戦相手とどちらが先に点けるかが非常に重要になってくる。

「この駆け引きが勝負に大きく影響します。最初に点けるか後からかは好みがありますが、私は最初に点けて自分のペースに持っていきます。先手必勝ですね」

 そんな間合いもこのR32ではよく決まる。単純な馬力だけではクルマの価値は判断できない。最終的には相性がモノを言う。とにかくこのR32GT-Rは千葉代表の手足のように動いてくれるという頼もしさを持ち合わせている。

「コンスタントに9秒5~6が出て大満足。身体がスタートやシフトチェンジのタイミングを覚えているんですね。それを確認させてくれたR32は自分にとって特別な存在。アンチGT-Rは正式に返上です」 

ゼロヨンが自分の原点と感じさせる大切な一台

 峠からサーキットにステップアップするレーシングドライバーのように、仙台新港のゼロヨンからドラッグレースへと進出していった千葉代表。ゼロヨンが自分の原点だということをR32が再確認させてくれた。

「ストリートゼロヨンの緩い感じが好きな人も多く知っていますが、自分は曖昧が嫌いなので潔く白黒のつくドラッグレースが性に合っています。R32でドラッグを復活させて仕事にも張り合いが出ましたから」

 しかし、東日本大震災の影響で仙台ハイランドの日本で唯一のドラッグコースが平成25(2013)年に閉鎖。今やストリートゼロヨンも行われなくなり、R32は本領発揮の場所を失った。

「それでもこのBNR32は手放しません。ドラッグコースの復活を密かに待っています。そんなユーザーは意外と多いですよ」

 R32も今一度、千葉代表に華麗に操られることを望んでいるはずだ。

(この記事は2020年8月1日発売のGT-R Magazine 154号に掲載した記事を元に再編集しています)

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