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ド派手なバニング風「ハイエース」で8年23万km走破! 平成初期のバンライフ草創期はどんなだった?

子どもが乗るレプリカは4輪バギーの被せもの

80~90年代にカメラマンの相棒として活躍したハイエースの物語

1980年代後半から関西を中心に自動車関係のイベント取材で大活躍した新川治朗カメラマン。「この人、知っとるで!」という人も多いだろう。現在も大阪の写真館を元気に切り盛りしながらトヨタ「コースター」のキャンピングカーでカーライフをエンジョイしている様子はすでに別記事でお伝えしたが、過去のクルマ歴もなかなかすごい。今回は、コースターの前に乗っていた「ハイエース」のド派手バン仕様で、バンライフをエンジョイしていた時期を紹介しよう。

アメリカンなバンライフに憧れ最初はホーミーで車中泊旅行

若い頃、免許を取ってからはヤンチャにクルマを乗り継いでいたものの、アメリカ流のバンライフに憧れる気持ちが徐々に大きくなっていったという新川さん。

「カローラバンに乗ってからですかね。キャンプなんかが好きになりました」

そうこうするうちに結婚。1985年に15万円で買った日産「ホーミー」が気に入り、時代を先取りした車中泊で気の向くままに旅行をするようになった。そして、大阪在住の取材カメラマンとして、遠距離のイベント撮影の依頼も増えていった。

1990年ディーゼルのハイエースを新車で購入

「あの頃、軽油とガソリンの値段が1Lあたり50円くらい違ったんです。ガンガン距離を走るようになって、燃料代の差で新車、買えるや〜ん! ということで……」

1990年、初めて新車を購入することになった。ターゲットは、迷わずハイエース・スーパーロングのディーゼルだった。

納車されるとすぐに、ドレスアップは足元から、と馴染みのポンコツ屋へ。予算1万円の条件優先で、PCDもオフセットも考えずに転がっていたホイールをゲット。最初のドレスアップが完了!

次に、カスタマイズは車高から、とリアに2インチのロワードブロックを装着。それに合わせてフロントのダンパーラバーを取っ払ってトーションバーで調節。見事なシャコタンになった。

インテリアはDIYで二の字シートを製作し、回転シートで対面対座仕様に改造した。外装はノーマルながら晴れてバニングとなり、男の子3人を連れてのファミリー・キャンプに明け暮れた。

ド派手なシャコタンバニングで仕事に趣味に飛び回った

しかし、次第にドレスアップが物足りなくなってきたそうだ。

「最初の2年間は“シャコタンのドカタバン”と陰口を叩かれましたけど、特殊塗装専門の兄貴に頼んでカスタムペイントをしてもらって、一気に“ド派手バン”に昇格しました」

さらに調子に乗って、エリートミラージュ+レグノのセットに大金を投入。クルマは見違えるようになったが、懐は一気に真冬の寒さになった。

とはいうものの、撮影の仕事は絶好調。ド派手なバニングはどこに行っても人気者で、関西以西のクルマ好きにはかなり有名な存在になった。

「趣味では釣りにハマってたんで、取材があると、行った先の近くでついでに釣りもしてました。最初はクルマの中にボートを突っ込んでました」

手放したハイエースは専門学校生たちがローライダーに改造

8年間で23万km乗った思い出いっぱいの「ド派手バン」ハイエースとも、ついに別れるときがやってきた。

「NOX法で乗れなくなったのが一番の理由でした。子どもたちが大きくなって、もう少し広いクルマがいいなあ、とも思い始めていました」

イベントで見たキャンパーに憧れてコースター・超ショートへ乗り換えることになった経緯は、前回読んでいただいたとおりだ

「ハイエースは、当時、仕事でお付き合いのあった整備士専門学校に寄付しました。8年間乗って、故障は9万8000kmの時に燃料噴射ポンプから燃料が漏れただけ。それもクレームでトヨタが直してくれました」

なお、専門学校にもらわれていったハイエースは学生たちにイジられて、なんとハイドロ付きのローライダーにヘンシ~ン! カーショーにもエントリーしたのだった。お疲れさまでした!

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