1965年式 フィアット 600D ムルティプラ
「クラシックカーって実際に運転してみると、どうなの……?」という疑問にお答えするべくスタートした、クラシック/ヤングタイマーのクルマを対象とするテストドライブ企画「旧車ソムリエ」。今回は、現代の小型ピープルムーバーの元祖的存在にして、その個性あふれるスタイリングとキャラクターでも抜群の存在感を誇るフィアット「600D ムルティプラ」を俎上に載せ、そのあらましとドライブフィールについて、紹介します。
異形の1BOXスタイルを与えられた、世界初の小型ピープルムーバー
1956年1月、ベルギーのブリュッセル・モーターショーにてワールドプレミアに供された「600 ムルティプラ(Multipla)」は、「Multi Place」から命名されたという車名が示すとおり、現在では定石となっている1BOX/3列シート様式のピープルムーバーの先駆けともいうべき、きわめて画期的かつアイコニックなモデルだった。
1955年に登場し、のちにイタリアの国民車となったコンパクトカー「600(セイチェント)」ベルリーナをベースに、全高を約20cmかさ上げ。運転席・助手席をフロントアクスルの上に配置する「フォワードコントロール」とし、ルーフとキャビンをフロントエンドまで延長するという、大規模なデザイン・構造変更が施された。
フロントのドアは、後ヒンジで巨大な開口部を持つものとしたうえに、助手席側には後席にアクセスするためのリアドアを設置。いっぽうでリアエンドのスタイリングに変更はなく、テール周辺の意匠はあえて600 ベルリーナと共通する、とても流麗なものとされていた。
また、プラットフォームもベルリーナと共通ながら、乗員スペース確保のために燃料タンクはフロントのトランク内からリアに移されたほか、前輪への荷重増加に備えてサスペンションは、ウィッシュボーン+横置きリーフからダブルウィッシュボーン+コイルに換装。リアサスペンションも、ジオメトリーの変更が図られている。
このユニークな元祖小型MPVは、2列シート版と3列シート版を設定。後者では最大6名の乗車を可能とされ、生産国のイタリアでは、当時はまだ大家族主義と夏のヴァカンツァ(Vacanza)至上主義を謳歌している時代だったこともあって、大きなヒットを博すに至った。
くわえて、イタリアをはじめとするヨーロッパではタクシーとしても重用されたほか、フィアット傘下のトラックメーカー「OM」やカロッツェリア「コッリ」などが、エンジン上のラゲッジスペースを増やすために、リアエンドをもっと「箱っぽい」スタイルに改装するとともに、テールゲートも増設した商用/貨客兼用バージョンなども製作された。
リアアクスルに搭載されるエンジンは水冷直列4気筒OHVで、初期モデルでは排気量633cc・最高出力24.5ps。1960年には、600 ベルリーナが「600D」に進化するのと同時に、767cc・28.5psのエンジンを搭載するなどのマイナーチェンジが実施された改良型の「600D ムルティプラ」に移行。実質的後継モデルの「850 ファミリアーレ」が1965年に登場したのちも、1967年ごろまで生産されたといわれている。
壊滅的に遅い! でも、それでいいじゃないと思わせる魅力たっぷり
フィアット 600D ムルティプラをまじまじと見ると、まずは日本の軽自動車枠に収まる全長3535mm×全幅1450mm×全高1520mmという絶対的な小ささに驚かされるとともに、「どちらが前で、どちらか後ろか分からない」と冗談めかしていわれるスタイリングが、じつに魅力的であることを実感する。
フォワードコントロールという考え方自体は、第二次世界大戦前のトラックやバスでもすでに存在していたほか、同じRRレイアウトの小型車であるフォルクスワーゲンでは、1950年から「タイプ2」として、同じ様式の商用バンや乗用ワゴン/ミニバスを生産してはいたものの、基礎となる600 ベルリーナの流麗なデザインアイコンをそのまま生かしたこと。くわえて、なにやら動物の顔を思わせるマスクの圧倒的な可愛らしさも相まって、まだデザイン立国だった時代のイタリア製品と感心させられてしまうのだ。
今回の取材にあたって、名古屋の「チンクエチェント博物館」からお借りしたのは、1965年式の600D ムルティプラ。つまり、767cc・28.5psのエンジンを搭載するモデルである。前開きのドアを全開し、運転席の足元を分断するステアリングロッドを、右足のつま先でまたぐようにしてコクピットに乗り込むと、フロントパネル1枚を挟んだ目の前は外界という、ノーズのないクルマには慣れていない筆者には新鮮な光景が広がる。
水冷4気筒エンジンは、セル一発で始動。アイドリングからして長閑な排気音を奏でる。床から生えたシフトレバーはかなり長いものの、その手ごたえは予想よりもしっかりしたもので、まずは1速に入れ、セイチェント系に共通する軽いクラッチをエンゲージして走り出してみることにした。
こちらも予想していたのだが、やはり遅い。最初のうちは遠慮して、早め早めのシフトアップを心がけていたのだが、それではすぐに失速してしまう。そこで意を決して昔ながらのイタリア流、1速、2速ともに引っ張り、スピードが乗ったところで3速に叩き込むやり方で走らせてみると、わずかながら活発になってくる。
ただ、いくら活発になったとしても、車両重量は600D ベルリーナの605kgに対して、750kgというかなりの重さである。スペック上では4.45kgm/3250rpmに過ぎない最大トルクでは、加速感もたかだか知れている。ところがドライビングに没頭しているうちに、そんな数字の上のことなど、すっかり頭から離れてしまった。
細いトルクをなんとかやり繰りするために、シフトチェンジを小刻みに繰り返すのは決して苦ではなく、むしろ積極的に楽しいこと。後方から聞こえてくる「ブオオオオ~ン」というサウンドは実用車然としたものではあるが、いかにもクラシック・フィアットを満喫している気分が盛り上がってくる。
古き良きイタリア映画の世界に没入したような、ちょっと不思議な感覚
そして、わずかながらもスピードが上がってくると、「ヌォーヴァ500」やセイチェントなど、RRフィアットに共通する操縦性も明らかになってくる。
おっとりした見た目の印象からは意外に感じられるかもしれないが、ステアリングフィールは正確でシャープ。くわえて、ステアリングギアボックスに至る以前に「く」の字に曲がった複雑なリンクを介するせいか、あるいは前輪の真上に座るフォワードコントロールゆえに、筆者の重い体重がダイレクトにフロントアクスルを圧迫するせいなのか、とくに据え切りではなかなか重い操舵力を必要とする。
したがって低速域では、いわゆる「手アンダー」が出てしまうものの、重心の高さから大きなロールを発生するコーナリング特性との組み合わせでは、この手アンダーと絶対的な遅さが、結果として安全性を担保しているともいえる。
現代の「ステランティス」フィアット部門公式のクラシックカー部門「FCAヘリテージ」が発表したデータによると、600D ムルティプラの車両総重量は1150kgに達するという。だから、このクルマ生来の目的どおり6名乗車で家族のラゲッジを満載してヴァカンツァに繰り出したならば、たとえば当時開通して間もなかった「アウトストラーダ・デル・ソーレ」や、北イタリアのアルプス山塊付近では、つねにエンジン性能めいっぱいの、なかなかハードな移動になっていたものと思われる。
また、キャビン内には排気音やら何やらがとどろいていたのも間違いないだろうが、当時このクルマを初めて手に入れた庶民の大家族たちは、それらの大騒音に負けない大声でおしゃべりしながら、楽しいヴァカンツァに赴いた……。
この600D ムルティプラに乗っていると、往年のイタリア映画の冒頭にありそうなノスタルジックなシーンの一部になったかのごとき、ちょっと甘い錯覚が、心の奥底に沸いてきたのである。
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