スピードスターとして蘇った1台の959
2025年5月22日にRMサザビーズがイタリア・ミラノで開催したオークションにおいて、ポルシェ「959スピードスター」が出品されました。今回紹介する出品車は、1987年にデリバリーが開始された翌年にドイツのアウトバーン上で不運なアクシデントに遭遇。それをきっかけに唯一無二のオープンモデルを製作。車両の詳細をお伝えしていきます。
1986年から200台限定の予定が最終的には283台を生産
当時のポルシェが持っていた最先端技術をフルに搭載し、1986年から限定で生産が開始された「959」。ポルシェのみならずスーパースポーツのファンにとっては、やはり特別な感情を抱かずにはいられないビッグネームといえるだろう。そのプロトタイプには「グルッペB」の名が掲げられていたことにも証明されるとおり、当時のグループB車両としてのホモロゲーションを得ることを目的に開発が進められたモデルである。
実際の生産も当初はグループB規定による200台が想定されていた。だがメカニズムの斬新さと圧倒的なパフォーマンスを知るやいなや、ポルシェのもとへは世界中のリッチなカスタマーからオーダーが殺到。最終的に959は283台が生産されるまでに至っている。
今回RMサザビーズ社がミラノオークションに出品したモデルは、959をベースにボディをオープン仕様へとコンバートしたものだ。ファーストオーナーはレーシングドライバーであり、のちに1995年のデイトナ24時間レースを制覇するなど、華々しいキャリアを持つことでも知られるユルゲン・レシグ。だが1987年に彼のもとへと納車された「959コンフォート」は、翌1988年にドイツのアウトバーン上で不運なアクシデントに遭遇してしまう。わずか数千kmという距離を走行したのみで、1度はその短い生涯を終えるのかと誰もが想像した。
フォイステルの手によってセカンドストーリーが始まった
だがこのレシグが所有する959コンフォートには、さらなる未来が待っていたのである。その存在に注目したのはレーシングドライバーであり、またポルシェのプロダクションカーをベースに、独自のコーチビルドやチューニングを行うスペシャリストとしての高い評価も得ていた、カール・ハインツ・チャーリー・フォイステル。
彼によって描かれた、セカンドストーリーこそが、ここでレポートする959のオープン仕様。その名も959スピードスターという唯一無二のモデルが誕生するに至った背景にあった。フォイステルと彼のスタッフは、トータルで4000時間を費やして、このプロジェクトを見事にコンプリートしてみせたのだ。
それが初めてオフィシャルな舞台に姿を現したのは、1989年秋に開催されたIAA(フランクフルトショー)でのことだった。959の基本的なデザインコンセプトを継承しながら、独自のアッパーボディが与えられることになった959スピードスター。フォイルテルはそれに当時としては非常に高額な約120万ドル、当時のレートにして約1億7000万円のプライスを設定するも、その存在はこの数字を納得させるに十分すぎるものだったのだろう。
予想落札価格どおりに無事落札
1990年には早くも、このさらに流麗な姿へと生まれ変わった959スピードスターは、あるカスタマーのもとへとデリバリーされることになる。ちなみに現在のオーナー、すなわちRMサザビーズ社を介して、今回オークションシーンへと導いた出品者の手元へと、959スピードスターが渡ったのは2008年のことだというが、車両のコンディションは誰をも刺激して止まないレベル。RMサザビーズはそれに、110万~150万ユーロ(邦貨換算約1億8000万円~2億4400万円)というエスティメート(予想落札価格)を提示して、世界のリッチにして熱狂的なファンからの入札を待つことになった。
そしてオークション当日、久々にその存在がクローズアップされるなかでの入札が進み、最終的にそれは129万8750ユーロ(邦貨換算約2億1000万円)というプライスで、次なるオーナーのガレージへと収まることになった。1980年代のスーパースポーツカーを象徴する存在ともいえるポルシェ959。その人気が今も一切衰えないことを、その数字は何より端的に証明してみせたのである。はたしてこの959スピードスターには、この先どのようなストーリーが待っているのだろうか。
