鈴鹿サーキットにおける事故第1号だったロータス14エリート
2025年7月8日、RMサザビーズ欧州本社は、ロンドンからほど近いバークシャーの田園地帯に建てられた、17世紀のマナーハウスを起源とする壮麗な古城ホテル「クリブデンハウス(Cliveden House Hotel)」を会場として、「Cliveden House 2025」オークションを開催しました。今回は、旧くは第一次世界大戦前の「ヴェテランカー」から、近・現代のスーパーカーに至る63台に及んだ出品車両のなかから、ロータスの名作、美しき元祖「エリート」を紹介します。じつはこの出品車両は、日本国内では間違いなくもっとも有名な個体。創成期のホンダで伝説を築いた1台でした。
ロータスの革新性を確立したオリジナル・エリートとは?
1957年秋のロンドン・ショーでロータスが発表した2台の傑作車を契機に、第二次世界大戦後のイギリスに星の数ほど存在したほかのバックヤードビルダーたちとの間には、決定的な差が生ずることになった。
その2台とは、今なお綿々とその血脈を保ち続ける「セヴン」と、ロータスの名を世界に轟かせた名作、タイプ「14」ことオリジナル・エリートである。
ロータスが英国のバックヤードビルダーたちから一歩も二歩も抜きん出た理由としては、創業社長コーリン・チャップマンの、時には狡猾とまで評された商売上手ぶりも看過できない事実ながら、その卓越したアイデアとテクノロジーの優秀さについても注目しないわけにはいくまい。
とくに、技術集団としてのロータスにとって最大のアドバンテージとなったのは、当時同社に参画したばかりのコスティン兄弟ら、航空機畑出身の技術者がもたらしたテクノロジーの活用して、極めて高度な構造計算と本格的な空力実験の成果をもってクルマ造りの基礎的哲学としたことだろう。そして、ロータスの革新路線を初めて体現したロードカーこそ、エリートだったのだ。
エリートの革新性を象徴するのは、その車体構造。独立したシャシーフレームを持たず、全世界を見渡しても日本の「フジキャビン」くらいしか例のない、総FRP製のモノコックボディを採用した。さらに後脚には、ストラット上部をモノコック側に取りつけ、下部はウィッシュボーン式にロワーリンクで支える「チャップマン・ストラット」を初採用した。
ピュアな成り立ちが仇となり、総生産台数998台のエリート
一方この時代のスポーツカーのなかでもひときわ美しく、エレガントとさえいえるスタイリングは、じつはチャプマンの友人で会計士を本業とするアマチュアデザイナー、ピーター・カーワン・テイラーの手によるものだったといわれる。
そしてパワーユニットは、起源を辿れば消防ポンプに行き着く名機。軽量/高出力のコヴェントリー・クライマックスFWE型1216cc直列4気筒SOHCを搭載した。最高主力は75psだった。
1960年には、リアサスペンションや内装などに改良を施したシリーズ2に進化すると同時に、85psまでチューンアップしたハイパワー版「SE(スペシャル・エクイップメント)」を追加。さらにエリートとともにモータースポーツに挑むユーザーのために、イタリアのウェーバー社製キャブレターなどでチューンアップが施された「スーパー95」、「スーパー100」などの発展モデルも少数ながら製作された。
ロータス エリートは、同時代のジャガーEタイプにも近い高価格にもかかわらず、世界中のエンスージアストから熱烈な歓迎を受けたものの、あまりにもピュアな成り立ちが仇となり、988台(ほかに諸説あり)が生産されたのちに1963年をもって生産を終えることになる。
それでも現代でもなお「オリジナル・エリート」という称号とともに、世界中のエンスージアストにとっての憧れの的となっているのだ。
ホンダの急成長とともに時代を駆け抜けたエリート
約1000台が生産されたというロータス・タイプ14エリートだが、そのうちのごく一部は、日本にも正規輸入されていた。このほどRMサザビーズ「Cliveden 2024」オークションに出品されたシャシーNo.「EB1321837」は、1961年に日本へ輸出された3台のエリートのうちの1台。ロータス側の記録によると、1961年8月23日に「芙蓉貿易株式会社」に請求書が発行されている。そして日本での最初のオーナーは「世界のホンダ」こと本田技研工業の創設者、本田宗一郎であった。
「エリートは、世界初の卵のようなクルマでした」
と、宗一郎の長子であり、ホンダから独立したチューニング&レーシングカンパニー「MUGEN(無限:現在のM-TEC)」創業者である本田博俊氏は、2021年に英国「Classic & Sports Car」誌のインタビューで語っている。
「ロータス・エリートには、フレームも独立したシャシーもありませんでした。当時、それはまるでUFOのような存在で、常に新しいものに興味を持っていた父には、とても新鮮だったようです」
たしかに、宗一郎へのエリートの影響は大きかったようで、その息子は、ホンダ初の量産車である「S500」のダッシュボードにインスピレーションを与えたと信じている。
1962年、ホンダが三重県に建設を完了したばかりの「鈴鹿サーキット」で、伝説の日本人ドライバー生沢徹氏がエリートをテスト走行させた。いっぽう若き日の博俊氏は、サーキットが正式にオープンする前に「スプーンカーブ」でエリートを横転させ、このサーキットで最初の事故を起こすという不名誉な記録を残してしまう。
「当時、日本にはロータス・エリートが2台しかなく、修理できる人がいなかった」
と彼は回想する。
「最終的に東京の中心部に小さなガレージを見つけたが、修理に時間がかかった」
このときエリートは「ジェットブラック」に塗り直されて本田家のガレージに戻ったものの、東京の薄暗い街路で幾度となく事故寸前の状況に遭遇したため、博俊氏は父親にボディを夜道でも目立つホワイトで、今いちど再塗装するよう懇願した。
ボルト&ナットに至るまでのフルレストアを実行
そののち博俊氏は、ヨーロッパを放浪する武者修行の旅に出るのだが、2年後に帰国した際、父親がエリートを「ホンダ・インターナショナル・テクニカルスクール(現ホンダテクニカルカレッジ関東)」に寄付していたことを知らされる。
そしてエリートは、長年その学校に保管されることになるものの、1980年に分解されたロータスを現在のオーナーが入手。2018年に英国ケントの「ブシェル・レストレーションズ(Bushell’s Restorations)」に、ボルト&ナットまで見直すレベルのフルレストアを依頼した。
ここで元本田家のエリートは3年間かけて修復され、過去の事故修理の痕跡が適切に修正されたほか、ZF製4速トランスミッションと、「ロールソン・レーシング(Rawlson Racing)」社が「スーパー95」スペックで組み上げた1216ccのコヴェントリー・クライマックスFWEエンジンが搭載された。
FRPボディは、ホンダの歴史に敬意を表した「グランプリホワイト」で仕上げられ、内側のトランクの一部は以前のボディカラー変更を示すために、サンディングされたまま露出されている。また、鈴鹿サーキットでの事故で生じた運転席側の窓枠の傷も同様に残されている。
今回の出品に際して、RMサザビーズ欧州本社では
「タイプ14 ロータス・エリートは、切ないほど美しいデザイン、競技歴、真の希少性を備えたまさに特別なクルマです。この個体はさらに驚くべきもので、現代の世界を形作った先見の明のある自動車の巨匠、本田宗一郎との興味深い初期の歴史を誇っています」
という謳い文句を添えて、7万ポンド~10万ポンド(邦貨換算約1463万円〜2090万円)という、イギリスにおけるオリジナル・エリートの相場価格よりも少々高めのエスティメート(推定落札価格)を設定した。
そして迎えたオークション当日、競売では7万3600英ポンド、現在のレートで日本円に換算すると、約1538万円で競売人のハンマーが鳴らされることになったのだ。
この種のオークションの常として、落札者の指名や素性が明かされることはない。願わくば落札したのはホンダかその代理人であり、いずれは鈴鹿サーキットパーク内の「Honda RACING Gallery」、あるいはモビリティリゾートもてぎの「Honda Collection Hall」にて展示される様子を見てみたい……。そうでなければ、せめて日本人愛好家が落札していてほしいと思うのは、決して筆者だけではないだろう。
