GT1クラスで初年度は11戦中6勝!2年目で全勝とあまりにも強すぎた
グランツーリスモベースのスポーツカーレース・BPRグローバルGTシリーズの後継として1997年にFIA GT選手権が創設されたとき、メルセデス・ベンツは新しいFIA GTレーシングツーリングカーであるCLK-GTRで参戦しました。今回はわずか128日という短期間でパートナーのAMGと共同開発したCLK-GTRにスポットを当て紹介します。
総合性能が問われるGTカーレースはチーム力も重要
FIAの定めるGTカーとは、クローズかオープンの2ドアボディで公道を走れるロードカーをベースとしなければならない。レースは、クラス1のマシンとクラス2(400ps以内)のマシンの混走で争われる。両クラスともエンジン排気量は自然吸気で2~8L未満、ターボで2~4L未満。クラス別にエンジン型式、車両重量に応じて吸気の流入を制限するリストリクターが装着される。
結果的に各マシンのエンジンパワーは拮抗し、総合性能の高さが問われるシビアなレースとなる。とくに、レースは長い距離で争うため、ドライバー交代のタイミングとメカニックのサポートなど、なによりもチームワークが重要となる。
AMGは製造を任されてから約2週間でエンジンテストを開始
FIA GT選手権で活躍したこのCLK-GTRは、モータースポーツパートナーのAMGと共同開発・製造された。丸目4灯が特徴である市販車のC208型CLKに由来したシルエットをあしらったこのCLK-GTRは、わずか128日という短期間で開発・製造された。
AMGは1996年12月5日に車両の製造を任され、12月21日には搭載する6L V12気筒48バルブエンジンの最初の試験をテストベンチで行った。その2日後、AMGはカーボンファイバーとケブラーのラミネートで作られた安全モノコックボディを製作。最初の車両は1997年3月26日にミッドシップ・レイアウトで完成し、その2日後にはスペイン・マドリード近郊にあるサーキット・デル・ハラマで、後の世界チャンピオンであるベルント・シュナイダーによって最初のテストドライブが行われた。
この量産ロードカーは、ホモロゲーション取得のため25台限定で公道走行可能なスーパースポーツカーとして製造された。
快進撃が止まらない!CLK-GTRが連続1-2フィニッシュ
1997年シーズンのドライバーには、ベルント・シュナイダー(1995年DTMチャンピオン)に加え、クラウス・ルートヴィヒ(1992年と1994年のDTMチャンピオン)も名を連ね、ツーリングカーで大成功を収めたふたりのエキスパートがチャンピオンシップを争った。
5月11日のベルント・シュナイダー/アレクサンダー・ヴルツ組は、シルバーストーン・サーキット(イギリス)で開催された大英帝国トロフィーで2位に入賞。続く6月29日、ベルント・シュナイダー/クラウス・ルートヴィヒ組はニュルブルクリンク4時間レースで最速タイムを記録するなど快走して優勝した。またチームメイトのアレッサンドロ・ナンニーニ/マルセル・ティーマン組が2位に入り、CLK-GTRは見事1・2フニュシュを達成する。その後も7月20日のスパ・フランコルシャン、8月3日のオーストリア・シュピールベルクと1−2フィニッシュの快進撃は続く。
1997年FIA GT選手権でAMGメルセデスがコンストラクターズタイトルを獲得
8月24日に行われた日本の鈴鹿サーキット戦では、ベルント・シュナイダー/アレッサンドロ・ナニーニ組が優勝。9月14日イギリスのドニントンでの4時間レースでは1位、2位、4位とトップ5の3台をCLK-GTRが占める。そして10月19日のセブリングと10月26日のラグナ・セカの2レースとも、ベルント・シュナイダー/クラウス・ルートヴィヒ組が優勝。ベルント・シュナイダーにとっては、メルセデス・ベンツで2度目のチャンピオンシップ獲得であった。
結果、1997年のFIA GT選手権でCLK-GTRは全11戦中6勝を挙げ、AMGメルセデスチームがコンストラクターズタイトルを獲得した。
FIA GT選手権1998年シーズンは全勝で連覇を果たす
AMGメルセデスは当初、FIA GT選手権の第2シーズンとなる1998年もCLK-GTRを使用し続けた。しかし、レギレーションによる出力制限に対応し、第3戦以降および6月のル・マン24時間レースから6LV12気筒エンジンを5L V8気筒に換装してCLK-LMへと進化。外観上ほとんど区別がつかないこのCLK-LMは6月のル・マン24時間レースのために開発され、ワークスマシンとして登場した時には大きな注目を浴びた。
それはフル・ワークス体制としては1955年以来、1989年にワークス復帰を果たしたシルバーアローが1・2フニュシュして以来のことだからだ。しかし、残念ながらCLK-LMの1998年のル・マン24時間レースはリタイアで終わる。
1998年のFIA GT選手権は、10月25日のカリフォルニア州ラグナ・セカで行われたシーズン最終戦でクラウス・ルートヴィヒ/リカルド・ゾンタ組がCLK-LMでドライバーズチャンピオンを獲得した。振り返ればAMGメルセデスが1998年シーズンを全戦優勝しコンストラクターズタイトルを獲得して連覇を達成。1997年の準優勝者に終わったクラウス・ルートヴィヒがFIA GTチャンピオンを獲得する。
翌1999年はGT1カテゴリーが消滅し、CLK-LMはル・マンGPプロトタイプ(LMGTP)のメルセデス・ベンツCLRに進化した(5.8L V8気筒エンジン搭載)。優勝候補と言われていたCLRは、サルト・サーキットで予選から本選にかけて3度も宙を舞ってしまった。ドライバー達は無事であったが、メルセデス・ベンツはこの耐久レースへの参戦を中止して、F1に注力していくことになる。
CLK-GTRロードカーは612psのM120型エンジンを搭載
631psを発揮するGT122型5986cc V12気筒エンジンをミッドシップに搭載したCLK-GTRの最大の特徴は、市販ロードカーとしてのデザインである。FIAの規則で、公道仕様のCLK-GTR(C297型)はホモロゲーション取得のために25台が製造された。しかし、この320km/hのスーパースポーツカーの購入者は、ドライサンプ潤滑やチタン製コネクティングロッドやバルブなどのほか、最適化が施されたM120から派生したレースカーのエンジンを手に入れることができなかった。その代わり、プロダクションカーには6.9L V12気筒、出力612psを発揮するエンジン(タイプM120)が搭載された。
厳格な審査をしたというが日本の芸能人でも購入できた
1999年当時の価格は307万4000マルク(日本円に換算すると約2憶5000万円)と非常に高額であった。購入時にはAMGによって厳正に審査された上で、プロによるドライビングレッスンを受けることが義務付けられていたといわれる。とはいえ、当時は現在ほど厳しく審査基準が徹底した時代ではなく、正規輸入や並行輸入まで存在したといわれている。日本へは数台輸入され、そのうちの1台は音楽プロデューサーの小室哲哉氏だったのは有名な話である。
通常バージョンの市販が一定数に達した段階の2002年には、V12気筒エンジンを搭載したオープントップのCLK-GTRロードスターも登場した。
今や、スーパースポーツカーの人気は急上昇し、現在のCLK-GTR相場は新車時の2倍以上といわれている。
