デ・トマソとシェルビー、ピート・ブロックが創った聖杯
世界の一流オークションでは、文献などでしか知るすべのない伝説級のお宝が、突然出品されることがあります。世界最大級の自動車イベント「モントレー・カーウィーク」で開催されるオークションのひとつ、RMサザビーズ北米本社主催の「Monterey 2025」は、この種の国際オークションとして間違いなく世界最大規模です。ここに出品されたデ・トマソ創成期にワンオフ製作された幻のレーシングカー「P70」に注目。そのオークションレビューをお届けします。
カンナム選手権参戦を目指したグループ7レーシングスポーツ
アレハンドロ・デ・トマソ、キャロル・シェルビー、ピート・ブロック、そしてメダルド・ファントゥッツィといったオールスターの開発チームを擁した「デ・トマソP70」は、運命のいたずらによって
「もしも実戦投入できていたら……」
という伝説に終わったものの、レースで活躍する資質は整えられていた。
1965年のレースシーズンに向けて、キャロル・シェルビーは「クーパー・モナコ」をベースとしたグループ7レーシングスポーツ「キングコブラ」の後継車を模索していた。当時隆盛を極めていた「USRRC(United States Road Racing Championship)」シリーズと、間もなく始まろうとしていた「Can-Am(カンナム選手権)」で、ブルース・マクラーレンのシボレーエンジン搭載車を打ち負かすことを目指したシェルビーは、7Lエンジンを搭載した後輪駆動のオープンプロトタイプを構想する。
しかし、フォードがビッグブロック7Lの「NASCAR」用レーシングエンジンを軽量合金バージョンとして提供することを拒否したため、シェルビーはデ・トマソに解決策を求めた。そこで、アルゼンチン出身のエンジニア兼経営者であるデ・トマソは、フォード・スモールブロック289(4.7L)エンジンを7Lまでスケールアップすることを提案した。
かつてGMデザイン部門のインターンとしてコルベットC2スティングレイの初期スケッチを描き、後に「シェルビー・アメリカン」で「コブラ・デイトナ・クーペ」のボディを担当したピート・ブロックは、シェルビーから新しいボディの設計を任された。ブロックは、調整可能なリアエアフォイルのコンセプトを提唱しており、彼が以前にデザインした「ラング・クーパー・スペシャル」をベースに、滑らかなリアウィングを持つオープンレーサーのスケッチを描き出した。
シャシーは、デ・トマソ社が開発したセンター・スパイン構造を採用して製造された。この斬新なデザインは、当初1.6L級レーシングスポーツ「ヴァレルンガ」用に設計されたもので、エンジンとトランスアクスルを負荷分散構造体としてフレームに組み込んでいるという点では、数十年後に登場した「マクラーレンF1」とよく似ている。
当初、標準の4.7LフォードV8エンジンと、デ・トマソが特別に製作したインテークマニホールドが搭載されたこのシャシーは、ボディ製作のためにカロッツェリア・ファントゥッツィの工場に送られ、そこでブロックは、モデナの優秀な職人たちと協力しながら作業を進めた。
歴史の綾に消えた悲劇のレーシングカー
デ・トマソP70は、レギュレーションによる車両規制の緩やかな「Can-Am選手権」参戦カテゴリーとして設計され、より厳格なFIA「グループ7」規約には対応していなかった。そのため、鬼才ピート・ブロックは数多くの革新的なデザイン要素を実装することができた。プレクシカバー付きのヘッドライトや上部をカバーした後輪に加え、信じられないほど低いボディ一体型のウィンドスクリーンと、高速時において相当なダウンフォースを生む調整可能な後部エアロフォイルを特徴とする。
ところが残念なことに、デ・トマソの7Lエンジン計画がシェルビー側のスケジュールより遅れてしまったため、アメリカ側はプロジェクトをキャンセルした。強力な7LのV8エンジンがなければ、P70は激戦が予測されるCan-Am選手権で闘うには十分な競争力を得られず、かといってP70のスペックは、企画当初からFIAグループ7レギュレーションを意図的に無視して策定されていたため、FIA「世界スポーツカー耐久選手権(WSC)」レースへの投入は不可能だった。
さらに、プロジェクトの要であったキャロル・シェルビーが、フォードとの間で「GT40」によるル・マン制覇プログラムの統括を引き受ける契約を結んだことも、デ・トマソの決断に影響を与えたに違いない。それでも、シェルビーに劣らぬ戦略家であるアレハンドロ・デ・トマソはプロジェクトを迅速に再編成し、製作台数は1台のみながら、なんとかP70を完成にこぎつけた。
そのかたわら、デ・トマソは次期市販モデルとなる「マングスタ」の開発をサポートさせるため、カロッツェリア「ギア(Ghia)」社の実質的買収に成功。元々ギアとは関連のないP70も、1965年のトリノ・モーターショーにおいてギア・デ・トマソ「スポルト5000(Ghia De Tomaso Sport 5000)」と改名・再ブランド化されることになる。
トリノ・ショーでスポルト5000として展示された後、P70はデ・トマソ工場の片隅で分解された状態で長年保管された。そのまま歴史の闇に葬り去られる運命かと思われたが、じつに40年近い時を経た2004年になって、デ・トマソの熱心な愛好家にして研究者でもあるフィリップ・オルツィク氏が、かつてP70と呼ばれたものを発見し、その栄光を取り戻すための取り組みを開始する。
デ・トマソ愛好家たちによって残骸からの復活
デ・トマソP70の残骸を手に入れた新オーナーの目的は、当初は完成車としての組み立てだった。しかし、このプロジェクトでは必要に応じて新品のサスペンションとブレーキ部品でシャシーをリビルドするほか、オリジナルスタイルのFRPフロントボディセクションと鋳造アルミニウムホイールを新規製造する作業も必要となった。
動力面では、1968-69年のル・マン24時間レースにて優勝したジョン・ワイアの「ガルフGT40」に採用されたものと同様の「ガーニー・ウェスレイク」製アルミニウムヘッドを装着したフォード・スモールブロックV8エンジンが搭載された。
2005年8月のモントレー・カーウィークに際して行われたコンクール・デレガンス「ザ・クエイル・モータースポーツ・ギャザリング」にて、未完成の状態のまま展示されたP70は、2013年4月に今回のオークション出品者でもある現オーナーに売却され、より包括的なレストア作業が着手される。
そして2013年8月の「ザ・クエイル」内で開催されたピート・ブロック追悼イベントでレストアを終えたP70が展示された上に、「モーター・トレンド・エディターズチョイス・アワード(Motor Trend Editor’s Choice Award)」を受賞。3年後の同じイベントでも「戦後最優秀レースカー賞(Best Post-War Racing Car)」を受賞した。また、2016年の「アメリア・アイランド・コンクール・デレガンス」でも展示されている。
今回の「Monteray 2025」オークション出品に際してRMサザビーズ北米本社は、その公式カタログ内で「シェルビーとデ・トマソの愛好家にとって、この超希少で興味深い競技用/展示用マシンは、モータースポーツ史上もっとも意外なコラボレーションの産物であり、世界中のスポーツカーレース愛好家を魅了することでしょう」と歴史的価値をアピール。75万ドル〜100万ドルの予想落札価格(日本円で約1億1070万円〜1億4760万円)を設定した。
そして迎えた8月16日のオークション当日。モントレー市内の大型コンベンションセンター、および今年からは隣接するホテルにも会場を広げて挙行された対面型競売では、入札がいまひとつ伸び悩んだようで、入札締め切りに至っても予想落札価格の下限に届かない72万ドルで、競売人のハンマーが鳴らされるに至った。
とはいえ、現在の為替レートで日本円に換算すれば約1億700万円という落札価格は、レース歴のないレーシングカーに下される判定としては十分に高価であると感じられるかもしれない。それでも、この夏のモントレー・カーウィークでもプレゼンテーションが行われていた最新の「デ・トマソP72」のモチーフとなった、世界でただ1台だけのオリジナルと思えば、この落札価格も理に適ったものと感じられるのである。
