富士に現れた512Mとグレッグ・ヤング選手
モータージャーナリストの中村孝仁氏が綴る経験談を今に伝える連載。今回は、1960年代の日本グランプリでレースに魅了され、その後に続く日本のモータースポーツ史に残る1972年富士グラン300マイルレースに参戦するさまざまな伝説となるマシンについて振り返ります。
大排気量レースマシンとツーリングカーが混走したグランチャンピオンレース
1968年に初めて富士1000kmレースを観戦し、すっかりレースの熱気に魅了された1970年代。当時はようやく免許は取ったものの、クルマは親父との共有だったため、週末に気安く出かけるわけにはいかなかった。だから、当時のFISCO(Fuji International Speedway Co.,Ltd=富士スピードウェイ株式会社・現FSW)までどうやって行ったのか、記憶は定かではない。
それでもFISCO通いは年に数回は行っていた。なかでも1972年の富士グラン300マイルレースはとくに印象深いレースだった。というのも、このレースには後の日本のレースに大きな影響を与えることになる、数多くのマシンが登場していたからだ。
1969年に日本グランプリが消滅しても、レースの火が消えることはなく、富士スピードウェイではグランチャンピオンレースが1971年から始まっていた。初年度は車両規定が緩く、上は酒井正がドライブしたマクラーレン「M12」が7Lのシボレーエンジンを搭載していたほか、ローラ「T160」なども同じような大排気量V8エンジンを搭載していた。一方、下のクラスは1.6Lエンジンを搭載したいすゞ「R6」や、ツーリングカーの日産「フェアレディZ」などが参戦したごった煮のようなレースだったが、観客はいつも興奮気味だった。
選手権は2Lマシンとなったがフェラーリ「512M」など大排気量も参戦
1972年からグランチャンピオンレースの選手権は2L以下のマシンにかけられることになったが、大排気量車は依然として健在だった。このレースには常連のマクラーレンに加え、高原敬武が持ち込んだ3L DFVユニットを搭載したローラ「T280」がデビューし、さらに生沢徹が持ち込んだGRD S72も日本初登場。そして、個人的なお目当ては、グレッグ・ヤングが持ち込んだフェラーリ「512M」だった。
フェラーリ512は、フェラーリが1969年にレギュレーションが変更されたグループ5のスポーツカーカテゴリーに合わせて製作したマシンで、当初は512Sと呼ばれた。5Lの60度V12はまったくの新設計であった。最大のライバルは、ご存じのとおりポルシェ「917」。映画「栄光のルマン」はこの2台の争いを描いたものだ。しかし、1969年に25台を作り終え、初期トラブルを解決していた917に対し、512は1970年シーズンに入ってからそれを始めたため、ポルシェとの差は決定的だった。
カスタマーに放出された悲運の512Mの1台がFISCOへ
グループ5は最低25台の生産が義務づけられており、フェラーリもその条件をクリアしなくてはならなかった。ホモロゲーション(車両の公認)の期限当日、フェラーリは17台の完成車と残り8台分のパーツを検査官に提示したそうだ。これをもってホモロゲーションが通り、その直後には完成したうちの5台がデイトナ24時間レースへと送り込まれた。しかし、勝利を収めたのはセブリングでのレースのみで、残念ながら917の牙城を崩すことはできなかった。512Sの改良版である512Mが登場するのは、1970年シーズンの最終戦。徐々に軽量化を果たして戦闘力を増した512Sのスパイダーバージョンよりも、さらに軽量化されたマシンは815kgとなり、ボディカウルも大きく変更されていた。25台作られた512Sのうち、15台がこの512M仕様にコンバートされている。
せっかくマシンを完成させたというのに、ワークス・フェラーリは1971年シーズンを3Lプロトタイプに集中することを選択。結局512Mはカスタマーチームが使用することになり、その真の実力を発揮するには至らないという不運なマシンとなってしまったのである。
そのカスタマーに放出された512Mの1台が、FISCOにやってきたのだ。
レース本番で期待していたV12サウンドはわずか6周でリタイア
濃紺に白のストライプをまとったカラーリングはお世辞にもフェラーリらしくなかったが、予選で見せた走りは5番手とはいえ、ストレートでのV12サウンドは圧巻だった。ドライバーのグレッグ・ヤングはカンナム、インターセリエ、F5000などに出場したドライバーだが、目立った戦績は残していない。また、彼のデータベースで戦績を見てみると、48レースに参戦したとあるが、富士グラン300マイルレースはその48レースには含まれていなかった。
1972年6月3日(土)の本番レース、残念ながら天候は雨。第1ヒートはまだしも、第2ヒートになると大パワーのマシンには極めて不利な状況となり、ヤングのフェラーリも第1ヒートで6周目にリタイア、第2ヒートはわずか1周でリタイアとなり、不完全燃焼に終わってしまった。V12サウンドが聞けると思っていた私としては、まったく当てが外れたのだが、レース当日はなぜかパスもないのにコースに並んだマシンを撮影するという大胆な行動で、数点の512Mの雄姿を収めることができた。
両ヒートの合計で争われたレースは雨が大きく影響し、ビッグマシンはいずれも敗退。優勝はなんと柳田春人のフェアレディ240Zであった。
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