マセラティの黄金時代を飾るレーシングスポーツ
1950年代のマセラティは、レースのためだけにクルマを作る職人集団でした。そのなかでも「200SI」は、美しいスタイルと高性能を兼ね備えた代表的なモデルです。今回RMサザビーズのモントレー・オークションに登場した個体は、長いレース経歴と完璧なレストアを経て現存する貴重なマシンは世界中から注目を浴びることになりました。
レースカー専業コンストラクター時代に創った佳作
1955年、マセラティはF1マシン「250F」用エンジンをベースに拡大し、「300S」を基幹とする新世代の直列6気筒DOHCエンジンを発表した。この基本設計は、1.5Lと2Lの排気量を持つ2種類のツインプラグ4気筒エンジンにも波及した。それぞれレーシングスポーツモデル「150S」および「200S」として、スポーツカー耐久レースやヒルクライム、当時はまだ盛んだった「ミッレ・ミリア」などの公道ロードレースなどに実戦投入された。
150S、200Sとも名工メダルド・ファントゥッツィによるバルケッタ型オープンボディが架装された。流線型のフェンダーや突き出した楕円のグリル、後方に伸びるヘッドフェアリングが特徴であり、結果として官能的かつ耽美的なボディラインを特徴としている。
200Sは、間もなくジャン・ベーラによって1956年の「バリ・グランプリ」で2位、「ローマ・グランプリ」では総合優勝を果たした。また、スターリング・モスとチェーザレ・ペルディーサ組は同年のモンツァ「スーペルコルテ・マッジョーレ」で総合2位に入賞し、この新型モデルの活躍期を牽引することになった。
1957年シーズンは、FIAレギュレーションの新たな「アペンディックスC(付則C規定)」施行により、200Sはフルサイズのウィンドスクリーン、一応は機能する左右ドア、スペアタイヤの収納スペースを備えた最新スペックに進化する。その後、このモデルは「200SI(接尾辞はSport Internazionale:国際スポーツレースシリーズに由来)」と改称された。また、このSI時代のモデルは2Lの排気量区分がないレースに向けて2.5Lエンジンも用意された。これを搭載した車両は「250S」と改称され、これを受けて多くの初期型2L仕様車が、250仕様エンジンにアップグレードされた。
1957年の生産終了までに、200Sおよび250Sのシャシーは総計28台が製造されたと推定されている。高回転域でのトルクフルな性能と官能的なボディラインにより、現在もコレクターから高く評価されている。クラシックレースでの楽しみにも理想的なこれらのユニークなバルケッタは、マセラティの黄金時代を象徴する存在であり、史上もっとも印象的な欧州製レーシングスポーツたちが誕生した時代を体現している。
蛇足ながら、わが国における重度のエンスージアストにとってのマセラティ200SIといえば、日本のTV界では「巨匠」の愛称でも知られる超一流のエンターテイナーで、ミッレ・ミリアの熱心なコンペティターとしても世界的に有名なM.S.氏が、かつて所有していた(現在はご友人である別の日本人愛好家に譲渡)ことが思い出されるかもしれない。
ヨーロッパとアメリカにおける輝かしいレースヒストリー
RMサザビーズ「Monterey 2025」オークションに出品されたこの美しい200SIは、現役時代からビッグレースで戦歴を刻み、現オーナーのもと17年間の所有期間を通じて入念なフルレストアとヴィンテージレースへの参加を経た、とくに希少な逸品である。
この個体は、シャシーNo.2425。製造された28台の200SIのうち、23番目に当たる。マセラティ・クラシケの文書(原産地証明書、工場製造シート、納車シートの写しを含む)によれば、シャシーNo.2425は当初2Lエンジンを搭載し、1957年7月に完成した。当時のアメリカ合衆国正規代理店である「マセラティ・コーポレーション・オブ・アメリカ」への納車が予定されていた。
こうした記録があるにもかかわらず、この200SIは1957年4月のジーロ・ディ・シチリアでジョルジオ・スカルラッティがクラス優勝(総合3位)を果たした車両として、長年認識されてきた。この勝利は、イタリア中部および南部地域のマセラティ販売代理店グリエルモ・デイの個人チーム「スクーデリア・チェントロ・スッド」のサポートのもとで達成された。
その後、この200SIは再びスクーデリア・チェントロ・スッドによって9月の「GPカドゥール」にエントリーされ、アンドレ・ロエンスがポルシェ「550 RS」やフェラーリ「500 TR」など、多数のライバルを退けて総合優勝を勝ち取った。
これらの欧州でのレースを経たのち、マセラティはテキサス州ダラスのディック・ホールが所有する「キャロル・シェルビー・スポーツカー」社に購入された。こうしてようやく当初の予定どおり米国へと輸出されることになった。
兄のホールは、販売したマシンたちを弟であるレーサー、ジム・ホールのドライブで走らせることによって、頻繁に宣伝した。彼の所有するマセラティ群には、新車として直接米国に流通したとされる9台の200SIのうち、少なくとも4台が含まれていた。
1957年10月、サンディエゴのアワーグラス空軍基地で開催された予選レースで、シャシーNo.2425を駆ったジム・ホールはクラス2位(総合3位)に入賞した。翌日の本戦でもクラス2位(総合5位)を獲得した。11月初旬、パームスプリングスで開催されたSCCAナショナルイベントでは、このテキサス人ドライバーは再びクラス2位(総合8位)に入賞したが、その数週間後のラグナ・セカ戦とリバーサイド戦では、序盤でリタイヤを喫してしまった。
1958年、このマセラティは熱心なSCCAプライベートレーサーであるロバート・ボブ・クーン中佐に売却された。クーンはMG「TD」を皮切りに、シアタ「208S」、アバルト、ACブリストルと、興味深いレーシングマシンを次々と乗り継ぎながら徐々に頭角を現していた。彼とシャシーNo.2425での活躍には、1958年9月のライムロックでの総合6位、3週間後のワトキンス・グレンでの「フォーミュラ・リブレレース」総合5位が含まれる。
そして1962年までに、このマセラティは別のレーシング・プライベーターで、のちに悪名高きマスキー法(大気浄化法)の共同起草者となる米海軍退役軍人、オットー・クラインの手に渡った。クラインは、その後3シーズンにわたって200SIを数多くのレースに出場させた。1963年5月にウィルモットヒルズで開催されたSCCA(Sports Car Club of America)公式地域戦ではクラス1位、その1週間後にローレンスビルで行われたSCCA地域戦では総合優勝を果たすなど、このマシンは北米SCCAスポーツカー選手権では確固たる地位を築き上げていた。
サーキットイベントからコンクール・デレガンスまで楽しめる超絶美麗レースカー
レースカーとしての現役時代を終えた1972年、クライン氏はこのマセラティ200SIを著名なコレクター、ウェイン・ゴロンブ氏に売却した。このときゴロンブ氏は、エンジンNo.2425のオリジナルユニットが搭載されていたことを確認している。同氏は、エンジンをブロックはそのまま2.5Lにスケールアップするなど、メカニカルパートに徹底的な修復を施したのち、愛車となったマセラティを12年間にわたりさまざまなサーキットイベントで楽しんだ。
その後200SIは1980年代後半にかけて、「ジョー・マルケッティ」や「スティーブ・バーニー」ら信頼できるディーラーを介して所有者が変遷する。この期間中には2度「ミッレ・ミリア・ストーリカ」に参加し、クラシックカーレースにおける長く実り多いキャリアの礎を築くことになる。
1994年9月、200SIはロンドンのフィリップ・マルクに売却された。フルレストアを施され、FIAの「HTP(ヒストリック・テクニカルパスポート)」を取得している。1999年にはドイツのコレクターが入手。この個体には2.5LのデュアルイグニッションDOHCエンジンが搭載されていたことが確認された。同年11月のヴァッレルンガ戦、2000年4月のスパ・フランコルシャンで開催された「シェル・フェラーリ/マセラティ・ヒストリック・チャレンジ」に出場した。さらに2000年と2001年にはニュルブルクリンクで開催された「オールドタイマー・グランプリ」にもエントリーしている。
そして2007年、現在の所有者であるカリフォルニア在住のマセラティ愛好家が買い取り、直ちにフルレストアを委託した。現在搭載されているエンジンは、ウィスコンシン州ハートランドにあるリック・バンクフェルト率いる名門「ヴィンテージ・レストレーション・サービス」社によるリビルドを含む、大規模な修復が施された。
その後、現オーナーは2013年から2023年にかけてラグナ・セカ「モントレー・ヒストリックス」で数度にわたり本車を駆り楽しんだ。最近では2024年の「ペブルビーチ・コンクール・デレガンス」においてスペシャル・マセラティクラス(展示のみ)に参加するという栄誉に浴している。その3カ月後にはFIAの「HTP(ヒストリック・トラベル・パーミット)」を更新し、2034年12月まで有効である。
RMサザビーズ北米本社は、今回のオークション出品に際して作成した公式カタログにおいて
「ヴィンテージレースでのさらなる楽しみや、コンクール会場での展示に理想的なこの卓越した200SIは、17年間にわたる入念な手入れを経て出品され、マッチングナンバーのエンジンと、数多くのレース用スペアパーツが付属しています。モデナの美しい戦後スポーツレーサー愛好家の皆様へ、トライデントの純粋なモデルであり、形と機能の頂点とも言えるこの稀有な1台を手に入れる絶好の機会をご検討ください」
と謳いつつ、280万ドル~300万ドル(邦貨換算約4億1441万円〜4億4400万円)というエスティメート(推定落札価格)を設定していた。
そして迎えた8月16日のオークション最終日。モントレー市内の大型コンベンションセンター、および今年からは隣接するホテルにも会場を広げて挙行された対面型競売では、締め切りに至っても出品サイドが設定していたリザーヴ(最低落札価格)に届くことなく流札となってしまう。
現在は新たに275万ドル、最新の為替レートで日本円に換算すれば約4億420万円までプライスダウンした価格設定で、継続販売されているようだ。
