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ラリーファンを熱狂させた3台の“マルティニ・カラー”!イタリアの秘蔵ガレージに独占潜入

ランチア デルタS4:この顔がバックミラーに映ったら、瞬時に道を譲る、そん な迫力がある

日本のイベントにも名車を展示したマカルーゾ財団の恐ろしきコレクション

ラリー黄金期を彩った名車たちは、今も鮮烈な存在感を放っています。イタリア・マカルーゾ財団のガレージには、マルティニ・カラーをまとった歴史的なラリーカーが数多く保管されています。今回は、2025年の「オートモビルカウンシル」での特別展示を締めくくる取材として、イタリア・ミラノ郊外にある同財団を訪問。そこで出会ったのは、ランチア「デルタHFインテグラーレ16V」、「デルタS4」、そして「ラリー037」。いずれもラリー史に名を刻む3台でした。

20台を超えるラリーカーとレーシングカーを収蔵庫で保管

2024年のWRC世界ラリー選手権第13戦「フォーラムエイト・ラリージャパン2024」の会場となった豊田スタジアムでの展示に続き、富士モータースポーツミュージアムでの企画展、そして締め括りとなった2025年のオートモビルカウンシルでの特別展示として「THE GOLDEN AGE OF RALLY IN JAPAN」が開催された。

これらのイベントには、イタリアのマカルーゾ財団がコレクションする歴史的なラリーカー、ミニ「クーパーS(1966年)」、フィアット「X1/9アバルト プロトティーポ(1974年)」、ランチア「ストラトス(1976年)」、フィアット「131アバルトGr.4(1978年)」、そしてルノー「R5ターボ(1981年)」とアウディ「クワトロ(1981年)」の6台が展示され、多くのファンから注目を浴びた。

富士モータースポーツミュージアムでの企画展の記者発表の際に、筆者はマカルーゾ財団の会長である故ジーノ・マカルーゾ氏の夫人、モニカ・マカルーゾさんとお話する機会を得た。

「イタリアに行った際には他のコレクションも見せてもらえますか?」

と図々しくお尋ねしたところ

「それは是非とも」

と嬉しいご返答を頂戴した。

そのような経緯もあってイモラ・サーキットで開催されたヒストリック・ミナルディデイを取材した翌日、ミラノ郊外にある財団のガレージを訪れ、数々の名車を見せていただいた。

3棟の建屋で構成されたガレージで、メインとなる収蔵棟では20台を超えるラリーカーとレーシングカーが静かに時を過ごしている。今回伺ったときは3台のラリーカーが中央の棟にあるワークショップでメンテナンスの最中であり、また2台のレーシングカーが展示出張中とのことだった。とくに後者については、前日まで取材していたヒストリック・ミナルディデイに出走した後、イモラ・サーキットからガレージに戻ってくるための輸送中とのことで、すでに取材撮影済みと分かりひと安心した。

本稿では日本のイベントにやって来なかったラリーカーのなかから、マルティニ・カラーが鮮やかなランチアの3台を紹介する。

ランチアのWRCタイトルに貢献した「デルタHFインテグラーレ16V」

最初の1台は1990年のランチア デルタHFインテグラーレ16Vだ。世界ラリー選手権(WRC)が、1986年末でグループBを終了し、1987年から改造範囲が厳しく制限されたグループAで争われることになった。これに対処してフィアット・グループが次の主戦マシンに選んだのが、5ドアハッチのコンパクトカー、ランチア デルタである。これをベースに開発されたグループAのホモロゲーションモデルがデルタHF 4WDであった。

改造範囲がより厳しく制限されたグループAならではで、1987年にデビューしたデルタHF 4WDは、1988年にはデルタ インテグラーレ、1989年にはデルタ インテグラーレ16V、そして1992年には最終モデルとなるデルタHFインテグラーレへと進化を続けていった。

ここで紹介するのは、そのデルタの進化形、1990年のデルタHFインテグラーレ16Vだ。同年のサンレモでディディエ・オリオールが優勝を飾った個体である。競技車両だけに毎戦ブラッシュアップされているが、この個体は1987年から1993年までに、6度のマニュファクチャラーズ・タイトルと4度のドライバーズ・タイトルを獲得したシリーズの集大成と位置づけておかしくない。

(※最終進化モデル、1992年のサファリでユハ・カンクネンが2位入賞したデルタHFエボルツィオーネはワークショップでメンテナンス中であった)

グループB終焉のきっかけとなった悲劇のマシン「デルタS4」

2台目は、悲劇のヒーローとされたグループBマシン、1986年のランチア デルタS4だ。WRCを戦う最高にして最強のカテゴリーだったグループBは、年を追うごとに危険なまでの速さを備えるようになっていった。そのグループBに向けてランチアがリリースした主戦マシンがデルタS4であった。

実戦デビューは1985年の最終戦、RAC。このデビュー戦でヘンリ・トイヴォネンとマルク・アレンが見事な1-2フィニッシュを飾っている。本格参戦となった翌1986年も開幕戦のモンテカルロでトイヴォネンが優勝して好スタートを切った。ところが、第5戦のツール・ド・コルスでトイヴォネンがトップ快走中にコースアウトから崖下に転落し、コ・ドライバーのセルジオ・クレストとともに死亡するという痛ましい事故が発生した。

そのアクシデントも原因のひとつとなり、グループBは終焉を迎えることになる。しかも最後のグループB王者を狙って、カンクネンを擁するプジョーと激しい戦いを展開し、一度は王座を手中に収めたかに思われたが、プジョーの抗議によりFIAの査定で逆転し、デルタS4もアレンも無冠に終わった。それだからこそ両者は悲劇のヒーローとしてファンの記憶に残っている。今回紹介した個体は1986年のニュージーランドでアレンが、サンレモでダリオ・セラートが2位入賞を飾った個体である。サテライト(ワークスではない)参戦のセラートは1-2-3フィニッシュの2位という大金星であった。

アウディクワトロに後輪駆動で挑んだ2WD最後の勇者 「ラリー037」

そして最後の1台は、2輪(後輪)駆動の最後の勇者、ストラトスの後継ラリーカーとして開発された1984年のランチア ラリー037だ。当時はアウディが先鞭を切った4WDが威力を増してきていたため、ランチアとしても4WDの必要性を感じていたようだ。しかし、開発期間を考えた結果、ストラトスでも知見を重ねてきたミッドエンジンの後輪駆動というパッケージが採用されることになった。

具体的には、ジャンパオロ・ダラーラが手掛けたシャシーは、ベースとなったベータ・モンテカルロのセンターモノコックの前後に鋼管スペースフレームを組み合わせる手法を採用した。エクステリアデザインはピニンファリーナが担当し、ライバルのラリーカーとは一線を画した流麗なボディが大きな特徴となっている。

実戦デビューは1982年のツール・ド・コルスで、翌1983年シーズンにはマニュファクチャラー・タイトルを奪っている。同年、ツール・ド・コルスとサンレモで勝ち、マニュファクチャラー・タイトル獲得の原動力となったアレンの活躍が深く印象に残っているが、ここで紹介したマカルーゾ・コレクションのラリー037は、1985年のコスタ・ブラーバでミキ・ビアシオンが優勝を飾った個体そのものである。

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