マツダ RX-7に乗って考えるネオヒストリックカーの価値
レーシングドライバーであり自動車評論家でもある木下隆之が、いま気になるキーワードから徒然なるままに語る連載「Key’s note」。今回のお題は「ネオヒストリックカー」です。マツダが公式にリビルトを手掛ける1999年式マツダ「RX-7」の試乗を通じて、日本の旧車文化や税制が抱える課題、そして過去と現在をつなぐアナログなクルマの魅力を紐解きます。
アナログの余韻が残る不完全さの魅力
ネオヒストリックカーがいま静かに、しかし確実に熱を帯びている。クラシックでもなく、かといって現行車でもない。だいたい1980年代から2000年代あたりに生まれたクルマたちが、その曖昧な立ち位置ゆえに、今になって鮮やかな輪郭を持ちはじめたのだ。
理由は単純で、ちょうどクルマ好きとして感性が育った世代にとって“リアルタイムの憧れ”だったからだ。少年時代にポスターを貼り、ゲームで走らせ、雑誌でスペックを暗記したあの一台。手の届かなかった夢が、今ならガレージに収まる現実になる。
しかもこの世代のクルマは絶妙だ。電子制御は導入されつつも、まだドライバーの介入余地が色濃く残る。エンジンの鼓動はダイレクトで、ハンドルの向こうに機械の意思が感じられる。いわば最後のアナログの余韻である。現代のクルマの完成度の高さを否定するつもりはないが、ネオヒストリックには「不完全さの魅力」という、抗いがたい魔力がある。
さらに市場という観点でも面白い。供給は減り続ける一方で、需要はむしろ増している。結果として価格は上昇し、「あのとき買っておけばよかった」という後悔が、また次の購入意欲を煽る。クルマ好きにとっては、財布と心拍数が同時に忙しくなる時代だ。
古いクルマを文化として支えるマツダの挑戦
とはいえ、このブームは単なる投機や懐古では終わらない気配がある。部品の再生産や専門ショップの増加、コミュニティの活性化など、文化としての土壌が整いつつあるからだ。古いクルマを維持するという行為そのものが、ひとつのライフスタイルになり始めている。
マツダはこのブームを事業として取り組み始めた。フルレストアだけではなく、リビルトも手掛ける。ネオヒストリックカー人気は深いが、もはやパーツが存在しない。そこで、リビルトのためのパーツを復刻させているのだ。「CLASSIC MAZDA」としてレストアや部品の復刻供給に踏み込んでいるのである。
初代にあたるマツダ「ロードスター」やマツダ「RX-7」のパーツはすでに数百点規模で再生産され、さらにはロータリーエンジン本体すら新品供給されるという念の入れようだ。これは単なるアフターサービスではない。メーカー自らが「古いクルマを維持する価値」をビジネスとして成立させにいっている証拠である。
消費財か文化財か? 日本と海外の税制の違い
日本では、一定の年式を超えたクルマに対して自動車税や重量税が上乗せされる仕組みがある。環境性能の観点から見れば合理的な政策だが、ネオヒストリックやクラシックカーを楽しむ層にとっては、維持するほど負担が増えるという逆風にもなっている。大切に乗り続けることが、必ずしも報われない構造だ。
一方で海外に目を向けると、まったく異なる景色が広がる。たとえば英国やドイツでは、一定の年式を超えた車両を歴史的資産として扱い、税制面での優遇や登録区分の特例が設けられている。走行距離や使用条件に制限はあるものの、文化的価値を尊重しながら保存を後押しする仕組みだ。
フランスやイタリアでも同様に、旧車イベントや登録制度を通じて「守るべきもの」としての位置づけが明確になっている。
この差は単なる税制の違いではない。クルマを消費財と見るか、文化財の一部と見るかという思想の違いが、そのまま制度に反映されているのだ。
日本でも名車と呼ばれるモデルは数多く存在するものの、それらを長く維持することが社会的に歓迎されているとは言い難い。むしろ新しいクルマへの乗り換えを促す流れのなかで、旧車は静かに肩身の狭さを感じている。
もちろん、環境負荷という現実は無視できない。しかし、年間走行距離が数十kmにも満たない趣味車と、日常的に酷使される車両とを同列に扱うことが本当に合理的なのかは、議論の余地があるだろう。むしろ、まだ走れるクルマをわざわざ壊すことによる環境負荷と、年間走行距離がわずかな趣味車が環境に与える影響のバランスを、政府も考える必要がある。
贅沢な造り込みが蘇る1999年式RX-7の躍動感
ともあれ、今回改めてマツダがリビルトした1999年式のRX-7を走らせると、古き良き日本の隆盛を思い起こさせてくれた。
日本経済がシュリンクした“失われた30年”の直前に開発されたモデルだけに、贅沢な造り込みには目を見張るばかりだ。13B型ロータリーエンジンにはシーケンシャルツインターボが組み合わされ、低回転から高回転域まで澱みなく吹け上がる。
回転計の針の上昇に比例して、思い出と躍動感と、そして強かった日本が輪郭を伴って浮かび上がってくるのだ。
ネオヒストリックカーとは、過去を振り返るための乗り物ではない。むしろ、過去と現在をつなぎながら、自分の時間を豊かに編集するための装置のような気がする。
エンジンをかけるたびに、少しだけ時代を巻き戻し、それでも確かに“今”を走っている。その矛盾こそが、たまらなく魅力的なのである。
