本国のボルボ in スポーツからリアウイングをもらい完成!
モータージャーナリストの中村孝仁氏が綴る昔話を今に伝える連載。今回は「なんちゃってETCC仕様のボルボ 240ターボ」について振り返ります。V12を敵に回し、そのレースで見事に勝利したボルボ「240ターボ」に興味が湧いた孝仁氏は「もどき」を製作しました。
ジャガーやBMWを相手にストレートでぶち抜いた!
たしか1985年のことだったと記憶する。昔よく見ていた(今もやっている)カー〇〇TVという、その名もずばりの雑誌が始めたテレビ番組で、ヨーロッパのツーリングカーレースを放映した。1984年のベルギー、ゾルダーサーキットにおけるレースの模様だったのだが、そこに出てきたマシンに衝撃を受けた。その名をボルボ 240ターボと言った。ボルボ 240と言えば、その当時はこんなイメージをもっていた。
「年老いたお医者さんが黒い鞄を持って、よっこらしょと乗ってのんびり走る。その代わり丈夫でちょっとやそっとじゃビクともしない」
それは見るからに重そうである。
そんな鈍重でおよそレースなどには不向きそうなクルマが、そのゾルダーサーキットを疾駆した。相手は何とV12エンジンを搭載したジャガー XJSや、レースの申し子のような直6シルキー6を搭載したBMW 6シリーズである。そんな強敵を相手に……というか、それらのマシンをストレートでぶち抜いていく。ターボが付いているとはいえ、僅か2.1Lの直4エンジンで、V12を敵に回してそのレースで見事に勝利した。当時はETCC(ヨーロッパ・ツーリングカー・チャンピオンシップ)と呼ばれたレースでの、ボルボ初優勝であった。しかもターボカーが優勝したのもこの時が初めてだったらしい。
ジャガーやBMWはカッコいいし、性能もいい。何よりも雰囲気があって華やか。まあ、当時から値段もお高い。そこへ行くと、ボルボはその真逆の存在(に映っていた)。それに勝ってしまったのだから、俄然興味が湧いた。
優勝マシンと同じステッカーを製作し貼り付けた
で、何をしたかと言うと、無謀にもこのゾルダーの優勝マシンの「もどき」を作ろうと……。ただ残念なことに、レースカーのベースとなった2ドアモデルは当時輸入されておらず、しかも勿論ターボエンジンなどない。だから、あくまでも「もどき」。いわゆるステッカーチューンである。でも、そうは言っても車高ぐらいは少し落としたい。それに当時のボルボにアルミホイールなどなく、履いていたのは全てキャップ付きの鉄チンホイールである。
それはともかくとして、まずはベース車両の調達である。目黒通り沿いのボルボ・ディーラーに行って、手頃な価格の240を探した。どうせ色は塗り替えてしまうから外観はどうでも良かった。そこで、対応してくれた営業マン氏に事情を話し、240を安く手に入れたい旨相談をした。すると、状態の良いクルマで「出っ放し」、即ち保証などのない状態なら130万円でいいと、如何にも地味な段ボールのような色のクルマを見せてくれた。残念ながら走行距離などは忘却の彼方だが、こいつを即購入。
次にゾルダーの優勝マシンと同じ、白、イエロー、ブルーという、まさにスウェーデンカラーの3色に塗り分けてもらった。そこから先は当時仕事をしていた某出版社に頼み込んで、カッティングシート屋さんを紹介してもらい、優勝マシンと同じステッカーを製作、同じような状態に貼ってもらった。
ボルボからの1本の電話でロバート・クヴィスト氏に会えた
一方で、ホイールやサスペンションも、その当時懇意にしていたショップさんに相談すると、ならばワンオフで作ってやると……。そしてダンパーは本国ボルボの純正アクセサリーとして扱われている、ビルテーマと言うダンパーが入手できるという。これ、実はカヤバが海外向けブランドとして製作したもので、それを横流ししてもらったようである。というわけで、あっという間にホイールもダンパーも目途がついた。スプリングはまあ、当時の常道で15mmほどカットして製作完了。
こうして「もどき」のボルボ240ターボが完成したのである。エンジン及びトランスミッションには手の入れようがなかったから、仕方なくノーマル。その姿は当時色々な雑誌に露出した。
するとそのうわさを聞きつけたのか、ボルボから電話が……。何でも、このクルマを本当にドライブした(勿論レースで)、ロバート・クヴィスト氏が日本に駐在することになってやって来ているから、クルマを持って会いに来ないか? とのオファーである。もちろんすっ飛んでいった。六本木にあった当時の帝人ボルボ本社前で晴れてご対面。そして握手を交わした。
すっかりボルボといい関係になって、たまたまボルボのレース部門、ボルボ in スポーツの見学ができる海外取材があるとのことで、同行させてもらった。既に現地でも私のクルマは雑誌を通じて知っていたようで、モータースポーツ部門に到着するなり次のように言われた。
「お前か、これを作ったのは?」
と雑誌を見せられた。そして次に放った言葉は
「何でも欲しいものをあげるよ」
千載一遇のチャンスとばかり私は返事をした。
「ならば、ターボエンジン」
と言っては見たものの、笑いながら軽く却下された。他に何かないか? というので、本来はスカイラインGT-R用のリアスポイラーをつける予定だった。
「ならばレース用のリアスポイラーをくれ」
とダメもとで言ってみた。すると、なんと奥に入ってビニールにくるまれたレース用リアスポイラーを持ってくれた。
「どうぞ、プレゼントだよ」
まあ、驚いたけれど、本物のレース用リアスポイラーが手に入ってしまった。もちろん帰りの飛行機は手荷物で機内に持ち込み、帰国してすぐに友人のメカニックに付けてもらい、晴れて「240ターボ」もどきが完成した。
谷田部高速試験場でトップスピードを試すと約180km/hを記録
足を固めたこともあってか、鈍重なクルマの割に(決定的にアンダーパワーだから)、コーナリングフォースはとても高く、明らかにシャシーがエンジンに対して勝った状態だったので、フルブレーキングして入るようなコーナーでは予想外に速かった。トップスピードは当時の谷田部高速試験場で試した結果、約180km/hと言うところ。まあ、十分に速かった(当時としては)。
実はインターTECにボルボがワークスカーを持ち込むきっかけを作ったのは、ある意味このクルマである。当時の帝人ボルボの社長と話をして、自分のボルボに対するイメージが変わったから、きっとレーシングカーが来ると、ボルボのイメージが変わりますよ……と熱心に説いた。
結局フライングブリックと呼ばれたワークス・ボルボがインターTECに登場し、ブッチギリで優勝したのはご存じの通り。そして、そのレースの時パドック裏には私の「240ターボもどき」が堂々と停められていたのである。
