憧れのベレットGTRは吟味して購入したはずなのになかなかの曲者だった
モータージャーナリストの中村孝仁氏が綴る過去の経験談を今に伝える連載。16歳でバイクに乗り始め、18歳で自動車免許を取得した中村氏が初めて憧れたクルマは、隣家の友人の兄が所有していたいすゞ「ベレット1600GTR」でした。金銭的な制約やマーフィーの法則に翻弄されつつも、ついに15年の歳月を経て夢を叶えた氏の、旧車との情熱あふれる物語です。
ツインカムエンジンを搭載するベレG-Rは高嶺の花
16歳でバイクの運転免許を取得し、18歳で自動車免許を取った。最初のクルマは当時発売されたばかりのホンダ「シビックGL」だったが、2台目に手に入れたのは、なんといすゞ「ベレット1600GTR」だった。これがいわゆる旧車との出会いだ。好き好んで旧車を買ったわけではなく、ただ単に金銭的な余裕がなかったからである。
じつはベレットは、免許を取った時からとても気になっていたクルマだった。きっかけは、我が家の隣に住む友人の兄がベレGを持っていて、それに乗せてもらって以来、憧れていたからだ。
「こうだろ」
グァーン。何とも言えぬ心地よい音を立てて、ベレGはシフトダウンされ、当時としては驚異的、今にしてみれば軽自動車よりも遅い加速に移った。これが、僕がベレGに憧れた最初だった。
“こうだろ”と言った友人の兄は、まさにレーシングドライバーのように見えたものだ。ただ、このベレGがどこに置かれているのかは知らなかった。友人の家は我が家の隣で、物干しを隔てて行き交う仲だった。もちろん駐車スペースなどあるはずがない。当時は車庫法も今ほど厳しくなく、きっとどこか路上に停めてあったに違いない。
この友人は小学校時代からの悪仲間。中学に入ると、もう1人と合わせて3人でクルマ談議に花を咲かせた。免許がない身では、クルマに乗せてもらうか、運転席に座ってステアリングを握り、シフトレバーを動かすのが関の山。クルマ好きは何故か運転席に収まりたがる。とくに意味はない。シートに座ってステアリングを握り、メーターを眺める。ついでにミラーや後部座席を眺める。それだけだ。購入となると、やることは同じでも、そこに意味が生まれる。いわゆるチェックというやつだ。シフトレバーを動かすのはその典型で、まるで儀式のように必ずやる。
そのベレGにDOHCユニットが搭載されたのは1969年のこと。1952年生まれの僕は、当時すでに免許年齢に達し、バイクを卒業してクルマに乗りたい年頃だった。最初に恋したベレGにパワフルなエンジンが載ったのだから、欲しくないはずはない。しかし、通称「ベレG-R」にはとても手が出るほど裕福ではなかった。当時の価格で116万円。結果的に購入することになるホンダ シビックGLの54万円の倍近い価格だ。したがって、最初の恋は、いわば叶わなかった。
マーフィーの法則に阻まれたかのような叶わぬ恋
ところが、いざ中古車を探すとなると、見事なまでに見つからなかった。まるで「失敗する可能性のあるものは、失敗する」とマーフィーの法則に引っかかったみたいだ。当時、我が家には父が乗っていたホンダ「1300クーペ9」という高性能車があった。はじめのうちはそれに乗っていたが、自由に使えるわけではない。そこで、持っていたバイクを頭金にしてクルマに乗り換える許可を父に説得して得たのだが、高いクルマは買えない。結果として、シビックGLになったというわけだ。こうして、2度目の接近遭遇も叶わぬ恋となってしまった。
そして月日が流れ、今の生業を始めてまだ食えなかった頃、僕はマッキナ・ロッサ(イタリア語で「赤いクルマ」)と勝手に呼んだ赤いベレGに出会う。しかし、これもマーフィーの法則に阻まれてしまった。
15年目にして実った恋路はじつはイバラの道
さらに2年の月日が流れ、曲がりなりにも財布に余裕が出た時、ついにベレGとの恋が成就することになった。
この白いベレGに出会ったのも、マッキナ・ロッサと同じ中古車ディーラーだった。当時店員だと思っていたオヤジは、じつここの社長。2年前の話を覚えていてくれて、気さくに応対してくれた。このベレGに出会う前、もう1台、黄色のベレGが店の前に並んでいるのを確認している。入念なチェックを入れたのは言うまでもない。しかし、とにかく程度が悪かった。安易に程度の悪いクルマを抱え込んで破滅を招くよりは、じっと我慢の道を選べたのである。
そして、白いベレGに出会う。しかも、DOHCを搭載したGTRだった。
この時ばかりは、社長の甘言に乗ってしまった。
社長:「前からベレGを探してましたよね。うちでもGTRはなかなか入らないんですよ」
著者:「少し前に黄色いやつがありましたよね? あれも確かGTRじゃなかったですか?」
と尋ねた。
社長:「いやあ、さすがによく見てますね。家はお近くですか?」
著者:「ええ、ほんの5分ほどです」
社長:「お好きな人には、あの黄色いやつはおすすめできませんでしたよ。なにしろかなり傷んでいたんでね。うちも信用にかかわりますから、あれは業者に売りました」
著者:「そうですか。ところでこれ、ちょっと見せてくれませんか」
社長:「いいですとも。今、鍵を持ってきます」
社長が社屋に引っ込んでいる間、外装をチェックする。けっして状態は良くない。何よりも気に食わなかったのは、本来165/HR13のタイヤが標準なのに、扁平タイヤを履いていることだ。見た目にはホイールオープニングとタイヤの間に隙間ができていて、ほとんど“わかってないなぁ”という状態だった。
「どうぞ。もしよかったら試乗に行きませんか」
と鍵を持ってきた社長に促され、
「そうですね。じゃあ、ちょっと」
社長を隣に乗せて、川沿いの見通しの良い道に乗り出した。あまり無茶はできず、せいぜい60km/h程度で流してみる。
「あの、タイヤですけど、サイズ変えてますよね?」
と尋ねると、社長は……
「前のオーナーが走り屋でね。ジムカーナかなんかやっていたらしいですよ」
げっ! じゃあボディはヤレている。まずいぞ。
社長:「ただ、手入れだけはきっちりやってありますよ」
著者:「タイヤは元に戻してもらえますかね?」
社長:「アルミホイールは無理ですよ。ウチにあるものをつけることはできますが、タイヤも普通のしかありませんし、あのアルミはもったいないじゃないですか」
著者:「いえ、いいんです。どうせ新しいタイヤとホイールをすぐに付けますから。で、値段なんですけど、どうですかね。もう少しなんとかなりませんか?」
社長:「うーん。GTRは数が少ないからね。でも、考えましょう」
こうして、僕はヤレたボディには目をつぶり、ほんの少しだけ値引きしてもらい、ついに我が家にベレG、それもRがやってくることになった。恋い焦がれて、実に15年目のことだった。
レストアという名の終わらない苦闘
白いベレG-Rが我が家にやってきて、いよいよレストア作戦の開始である。ボディは想像していた通り、あちこち波打っている。それよりも厄介だったのは、70km/hを超えると途端にものすごい振動に見舞われることだった。バックミラーなど全く見えなくなる。
とにかく、まともに走るようにしなければ話にならない。安くしてもらった分、「現状渡し」と釘を刺された手前、その中古車ディーラーには持ち込めない。そこで、近くのいすゞの工場に持ち込んで、振動がひどいことを告げ、早くもドック入りとなった。
およそ1週間後、件の工場から電話があり、プロペラシャフトを固定する4本のボルトのうち、2本が抜け落ちていたことが報告された。そして、これでも完全には止まらず、かなりひどい事故を経験していることも宣告されてしまった。
それでも、最初よりはかなりマシになって戻ってきたGTRを、いよいよ化粧直しに取り掛かる。紹介された塗装屋に持ち込んでみた。
「こりゃあ中村さん。やってもいいけどさ。ボディパネル全部新しくしなきゃ、全塗装しても無駄だよ。パネルとゴム関係探してよ」
と塗装屋の社長(加藤さん)は言った。
理由は、パネルが波打っているから、板金するよりも新しいものに替えた方がはるかに安く、仮に全部板金したらえらく高くつくというものだった。ちなみにゴム関係というのは、ボディを全塗装する時に外すシーリング用のゴムが、再利用できなくなるから、新しいものを準備してほしいということだ。通常は塗装工場で調達するが、もう作られていないクルマとなると、一般的な塗装屋では調達が難しい。そこでオーナーにお願いしたのである。
ボディパネルがすべて見つかるという奇跡
しかし、ベレGのボディパネルなど、果たして手に入るのだろうか。頼るところがないので、仕方なく、プロペラシャフトを直してくれたいすゞの工場で聞いてみた。
「一応パーツは全部コンピューターで管理してますし、全国オンラインですから、どこかにあれば必ず引っかかります。でも、絶対にあるという保証はできませんよ」
いざとなれば業界の裏道を使えば何とかなるだろうと、案外気楽な気持ちで待つこと2週間ほどで、吉報が入った。
「中村さん。ありましたよ。トランクリッド以外は全部あります」
「全部取ってもらうと、いくらぐらいですかね」
「前後左右のフェンダーとドア2枚、それにラバー合わせてで10万は行きません」
信じられないような価格が返ってきた。
1枚5万円ぐらいするかと思っていたので、ほとんど反射的に
「じゃあ全部取ってください」
と言ってしまった。
それから塗装工場にも電話。
「加藤さん。ベレGのパネル、全部手に入りますよ」
「そうですか。じゃあやりましょうか。でも時間かかりますよ」
「いいです。ただ、3月末に筑波のヒストリックカー・フェスティバルで走りたいんですけど」
「わかりました。それまでなら大丈夫です。早速、色を決めに来てください。例のデュポンのいいやつでやりましょう」
と快く引き受けてくれた。
塗装工場のオーナーである加藤さんに、そのデュポンのペイントが如何にいいか散々聞かされていたが、正直なところ、よくわからなかった。ただ、ベレGをやる前に、もう1台塗ってもらったクルマも同じペイントで非常に良い仕上がりだったので、今回もそれでやることにしただけだ。
「基本的にはブリティッシュグリーンにしたいんですけど、あまり濃くないやつありますか」
「電話では何ですから、来てサンプル見てくださいよ」
というわけで、サンプルで決めた色は、かつてミニ・クーパーなどに塗られていた、ややくすんだグリーンに決まった。
「よしよし。これでマッキナ・ヴェルデ(イタリア語で「緑のクルマ」)が出来上がるぞ」
と思いつつ、頭に広がった妄想は、早くも筑波のコースを走るマッキナ・ヴェルデの姿だった。しかし、ただパネルを替えて塗装という簡単な工程では済まなかったのである。
パネルを外すたびに露呈する驚愕の事実
「中村さん。ロッカーパネル(サイドシル)から何から、みんな腐ってますよ。こりゃあ大変だ」
と加藤さんから連絡が入った。
「あの、できますかねえ」
と不安になる僕に、加藤さんは
「そりゃあ、出来ないことないですよ。何でもやっちゃいますよ。ただ、言っておかないと、後のことあるでしょ」
と暗に費用がかかることを示唆した。
こちらはそれを知りつつとぼける。
「時間的にどうでしょう」
「ああ、3月に何かで走るって言ってましたよね。まあ、間に合うと思いますがね。これからパネルを剥がして、どのくらい腐ってるか見ないことには……」
と、またまた“安くないぞ”コールだ。
「始める時、30万円くらいって言ってましたけど、それよりもかかっちゃうんですか」
予算オーバーはできないと釘を刺し直す。
「約束しちゃったからね。それでやるけどさ。でも仕事大変そうだよ。1度見に来てよ。ボディを剥がして写真撮っておくからさ」
と、加藤さんはどうやら大変な仕事を引き受けてしまったと後悔しているようだった。
後日、ボディを剥がしたベレGを見に行くと、やはり想像以上の錆と腐りだった。
「結局リアのトランク下なんか作り直しだよ。これが剥がした時の写真。それで、これが作り直した結果だからわかるでしょ」
と説明してくれた。
「中はそのままですよね。中までやると予算オーバーだし、第一、3月じゃ終わらないですしね」
という僕の言葉に、加藤さんはもう勘弁というそぶりだった。
やがて板金が出来上がり、塗装ブースに入ったから2〜3日したら見に来てくれという連絡が入り、マッキナ・ヴェルデとの対面にやや緊張しながら、港北にある加藤さんの工場を訪れる。
まだモール類が付いていないベレGは、精悍さがなく、何よりもルーフ中央に付くアンテナがないせいで、間が抜けていた。それと、小さなサンプルで見た色と、ボディに塗った色は、イメージがかなり違う。予想ではもう少し濃い色だったはずだが、これも少し間が抜けている。まさか「これ、頼んだ色ですか」なんて言ったら、加藤さんがへそを曲げてしまう。仕方なく「綺麗ですね」と、思ってもいないことを言ってみた。
「これでバフかければピカピカだよ」(加藤さん)
でもこちらは予想と違うと、少々納得がいかない。でもやってしまったものは元に戻らないから、ピカピカのモールが付いた状態を想像して我慢する。するとその時、加藤さんが追い打ちをかけた。
「フロントグリルのモールだけどさ。はじめから付いていないから、そのままだよ」
そういえば、買った時からグリル中央にあるはずの2本の横バーがなかった。4灯式のヘッドライト周りには付いているから、本来はちゃんと付けないと格好悪い。しかし、いすゞにそれまで頼んでいなかったのである。
「仕方ないです。また探しますよ」
とは言ってみたものの、なんだかんだで相当な出費をすでにしている。この先パーツを頼むお金なんて残っていない。
ウェーバー装着とホイール&タイヤ交換で念願の筑波デビュー
とりあえずできあがって、筑波でデビューしないことには、何のために一生懸命直してきたのかわからない。だいたい子供の頃からせっかちで、ゆっくりじっくりと仕上げていく根気というものがなかった。
プラモデルを買ってきても、その日のうちに作り上げてしまわないと気に入らない方だった。それが、手に入れてからそろそろ2年近く経っている。その間、乗った距離といえば、わずか数百キロ。まともに走らないのだから仕方がないと言えばそれまでだが、もっとも遠出しても、東京から第三京浜を港北まででは情けない。
それに、塗装が終わったらすぐに、キャブレターを手持ちのウェーバーに変える作業と、タイヤ&ホイールを変える作業が待っている。これをやらないことには、筑波は走れない。今付いているソレックスは、どうもメインジェットが少々詰まっているのか、ガバッと開くと、すぐに咳き込んでしまうのだ。
これらの作業がすべて終わって、マッキナ・ヴェルデとなった僕のベレットGTRが帰ってきたのは、筑波のヒストリックカー・フェスティバルのおよそ1週間前だった。いきなりサーキットでは何なので、キャブの調子を見るために走ってみた。
ほとんど電子制御燃料噴射しか知らない今の人に、キャブのクルマをドライブしろと言っても、ひょっとすると難しいかもしれない。夏と冬では吹け方が違うし、気温差でも違う。山に上がったりすると、途端にぐずつくこともある。それが、ひとつ口径の大きなキャブだと、なおさらだ。
マッキナ・ヴェルデにはウェーバー40DCOEという口径40φのキャブを付けていた。レスポンスはすごくいい。ただ、現代のクルマのように、いきなり床までアクセルを踏みつけると、必ずためらう。それとともに軽いジャダーを伴って、「ゴボゴボッ」と気難しい音をたてた後、背中を蹴飛ばされたように(当時はそう思った)、猛然と加速するのである。
この「ゴボゴボ」を避けるためには、アクセルをゆっくり、その後一気に開けば良い。けっして今のクルマでは聞けない「シュワーッ」というキャブレターの吸入音と共に、素晴らしいツインカムサウンドを聴かせてくれる。ここまで来れば、目的の99%は達せられた。残りの1%で、筑波を走れば、僕はそれで満足だった。
筑波では、ロールバーが入っているわけでもないので、レースやスポーツ走行はできない。だから、マッキナ・ヴェルデはファミリー走行に参加しただけだ。それに直ったとはいえ、振動が止まったわけではない。高速ではせいぜい120km/hがいいところだ。だから、このクルマのお楽しみは、2速で引っ張った時のウェーバーの吸入音と、ツインカムサウンドなのである。
残したスペアキーがマッキナ・ヴェルデと連れ添った証
わけあって、マッキナ・ヴェルデはその後、里子に出さなくてはならなかった。もちろん、依然としてオーナーは僕だし、自由に使えるという点ではこれまでと同じだった。しかし、置き場所が東京の反対側。こっちが城南なら、マッキナ・ヴェルデは城北地区に置かれる羽目になった。必然的に乗ってやる機会も遠のく。手に入れた時は、もう誰にも渡さないつもりだったけど、恋は移り気。いつしか面倒も見なくなり、結局やるはずだったインテリアのレストアは見送ることに。そして請われるままに、岡山のエンスージアストに譲ることになった。
電話での応対だけで、僕のマッキナ・ヴェルデを買っていった岡山の某君は、きっと心からベレGを愛していたに違いない。彼が岡山からわざわざクルマを取りに来た日。外は、しのつくような雨が降っていた。前日磨き上げてワックスをかけたボディに、水滴が放射状に滑り降りていた。エンジンは一発でかかり、快調なファーストアイドルをする。それを見て彼も、わざわざ岡山からやって来たことに満足したようだった。
キーを渡す時、一瞬のためらいがあった。じつは、彼には未だにひとつしかキーを渡していない。スペアを渡さなかったのだ。それは、僕の元に5年も住みついた、マッキナ・ヴェルデに対する未練でもあった。あれからおよそ40年以上経った今、マッキナ・ヴェルデのスペアキーは、僕の手元にある。他の僕の元に住みついたマッキナたちのスペアキーとともに。
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