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デ・トマソ工場からの帰路で体験した衝撃事実!初観のクルマを元F1ドライバーがドライブ

デ・トマソ マングスタ(右)とパンテーラ(左)

イタル・アメリカンの象徴、デ・トマソという存在

モータージャーナリストの中村孝仁氏の経験談を今に伝える連載。今回は、イタリアン・エキゾチックカー「デ・トマソ」をめぐる体験談です。創業者アレハンドロ・デ・トマソが築き上げたブランドの足跡、そして工場を訪ねた際に偶然乗せてもらったクルマを運転していたのは“伝説のテストドライバー”との忘れ得ぬ邂逅。その日モデナで味わった緊張と興奮を振り返ります。

アレハンドロ・デ・トマソが歩んだ波乱の経営史

デ・トマソというイタリアン・エキゾチックカーのブランドをご存じだろうか。古くはヴァレンルンガやパンテーラなどが、日本でも馴染み深いモデルとして人気を得た。ヴァレンルンガにしてもパンテーラにしても、搭載するエンジンは外部から調達し、とりわけ人気を誇ったパンテーラがアメリカンV8を搭載していたことから「イタル・アメリカン」などと呼ばれた。

自社製エンジンを搭載したフェラーリやランボルギーニなどの、いわゆる「サラブレッド」モデルとは一線を画し、当時は比較的手に入れやすいリーズナブルな価格で提供されていた。今でも時折中古市場に出てくるが、その価格は最低でも当時の倍以上の値段が付けられて販売されている。

さて、そんなデ・トマソの創業者、アレハンドロ・デ・トマソ。アルゼンチンで誕生し、後にイタリアに帰化した人物だが、当初はレーシングドライバーを目指した。

それが成功しないと分かると今度はコンストラクターに転身し、1959年にデ・トマソ・アウトモビリ SpAを設立。すぐにレーシングカーを製作するが、フェラーリやアルファ ロメオと大きく違っていたのは、早々とロードカー制作に乗り出したことである。

前述したヴァレンルンガやパンテーラに加え、マングスタ、さらにはラグジュアリーなドーヴィルやロンシャンなどを次々と世に送り出した。同時並行的にレーシングカーの制作も行ったが、こちらはあまり成功していない。

さらに1960年代から1970年代にかけては、多くのイタリアの至宝メーカーをM&Aで取得。そのなかにはカロッツェリア・ヴィニャーレやカロッツェリア・ギア、オートバイメーカーのベネリやモト・グッツィなど。自動車会社ではイノチェンティやマセラティなどが次々とデ・トマソ傘下となった。とくにマセラティは、政府に資金援助があったとはいえ、倒産の危機から見事に再生させ、今に至ることはご存じのとおりだ。

そんなデ・トマソも1993年に脳卒中に見舞われ、会社の経営を息子のサンティアゴに委ねることになったが、仕事は精力的に続けた。倒れた年に発売されたダイハツ「シャレード デトマソ」のデザインは、彼が関与したとされている。

アレハンドロ・デ・トマソは2003年に他界しているが、デ・トマソ・アウトモビリという商標は今も存続している。というよりも、2019年に復活して現在に至る。P72と呼ばれるロードカーを72台生産するとして復活した。とはいえ、その生産はなかなかスタートせず、ようやく今年になって量産モデルの生産が開始されたようだ。ちなみに1970年代同様、採用されたエンジンはフォード製のV8である。

ベルトッキの運転で味わったスリリングな走りは忘れられない

そんなデ・トマソを訪問したのは1980年前後のこと。正確な年は覚えていないが、まだパンテーラなどが中心に生産されていた時代だ。所在地がイタリアのモデナだとはいえ、市内からは相当に離れていて、タクシーで30分ほどかけて本社に行った。この時の目的がなんであったかは正直言うと覚えていない。おそらくインタビューでもしに行ったのだと思うが、肝心のデ・トマソ本人は不在だったため、工場内を少し見学させてもらって引き返し、その足でマセラティに行った記憶がある。

問題は帰りの足だ。とにかくタクシーはその場でお引き取り願ったため、途方に暮れていると、ご親切にもモデナ市内まで送ってくれるとのこと。しかもそのクルマはデ・トマソ ロンシャンだったから、私としては初めて乗るクルマだけに少し舞い上がった。待つこと数分、ほどなく御歳80歳ぐらい(実際には当時70歳ぐらい)ではないかという老紳士が「クルマに乗れ」と。

それなりに矍鑠(かくしゃく)とはしているものの、その風貌はどう見ても単なる老紳士であった。ところが、その老紳士、走り出した瞬間から猛然と飛ばす。それも尋常な飛ばし方ではない。ちょっとしたバンプでは4輪が浮いているのではないかと思うほどのスピードだ。同行したイタリア語の堪能な御仁に

「あなたは一体誰ですか?」

と聞いてくれと頼むと、彼からは一言

「Bertocchi…Guerino Bertocchi(グェリーノ・ベルトッキ)」

という答えが返ってきた。

そのとてつもなくぶっ飛ばすグェリーノ・ベルトッキが、F1にまで上り詰めた(実際にはエントリーしただけでドライブはしていない)レーシングドライバーであり、同時にマセラティの伝説的なテストドライバーであることを知ったのは、だいぶ経ってからのことだ。

もちろん、もしもその時点でわかっていたなら、サインをもらって2ショット写真を撮っていたであろうことは言うまでもない。というわけで、ベルトッキの写真はない。彼は1981年に死去するのだが、顧客のクルマをテスト中にトラックと衝突して帰らぬ人となったというから、例によって異常なスピードで飛ばしていたのだろうと安易に想像できる。いずれにせよ貴重な体験で、もしかすると彼と共に死んでいてもおかしくないと思ったものだ。

デ・トマソの工場敷地内には、往年のレーシングカーやプロトタイプなどが埃を被った状態で置かれていた。

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