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人生を変えた“わずか28台の展示”のポルシェ博物館!ジャーナリストとしての出発点となったドイツ巡礼【クルマ昔噺】

1970年式ポルシェ 917K

自動車ジャーナリストの原点となったポルシェ博物館との出会い

モータージャーナリストの中村孝仁氏の経験談を今に伝える連載。自動車ジャーナリストとしてのキャリアを西ドイツでスタートさせた筆者が、1970年代に初めて訪れたポルシェ博物館でした。そこには創業者フェルディナント・ポルシェ博士の思想と、ブランドの原点が凝縮されていました。あの日の体験こそ、筆者が自動車を伝える仕事を志したスタート地点だったのです。

自動車博物館の大家になるつもりで各地をまわることに

大学を卒業後すぐに、当時の西ドイツへ留学した。当初の目的は、シュトゥットガルト工科大学への入学を目指したが、当時は聴講生を受け付けておらず断念。その後、将来を見据えて自動車ジャーナリストを志すことにした。

コネもなく、何をすべきか見当がつかない状況であったが、当時オペルでデザイナーをしていた児玉英雄さんがいろいろとアドバイスをくれた。親切にも日本の自動車メディア関係者を紹介してくれた上、ある意味で方向性まで示唆してくれた。曰く

「生き馬の目を抜くようなジャーナリストにはならないように」

という言葉をいただいた。要するに、トップ屋ではなく、じっくりと腰を据えた仕事をせよという示唆である。そこで、せっかくヨーロッパにいるのだから、自動車博物館の大家になろうと決心した。そこから各地の自動車博物館巡りを開始した。

西ドイツに到着して初めて滞在したのはシュトゥットガルトである。ここはまさに自動車の聖地だ。シュトゥットガルト中央駅の駅舎の屋根には、当時あのスリーポインテッドスターが輝いていた。今もそうなのだろうか。ここにはポルシェもある。ポルシェの博物館を探すため、あちこちを歩き回ったことを記憶している。

当時ポルシェは、年間せいぜい3万台から4万台程度を生産する弱小スポーツカーメーカーに過ぎなかったが、その知名度と実力は今と変わらず、影響力も大きかった。しかも筆者が滞在していた1970年代中盤から後半は、ル・マンをはじめとした各地のレースで圧倒的な力を誇示した時代である。まさにこの頃からポルシェの躍進が始まったと言っても過言ではない。

やっと見つけた当時ポルシェの博物館は、収蔵車がわずか28台のちっぽけなものだった。今のモダンで立派な博物館からは、想像もできないほど小規模であった。博物館が正式にオープンしたのは1976年5月である。筆者が最初に訪れたのは1977年のことで、写真はその時と、それ以降に取材で訪れた時に撮影したものだ。

博物館は、ポルシェ通り42番地にあった。ポルシェの建物全体が古ぼけたものであったが、その中の博物館は、顧客への車両デリバリーや広報センター、工場見学者の待合室などと並んで設置されていた。多少の新しさを感じるものの、ウナギの寝床のように奥へ長い室内は、左右にクルマが並び、中央に歩くスペースがある本当に小さな空間だった。

展示されていたのは、そのほとんどが歴戦のポルシェ・レーシングマシンと、創業者フェルディナント・ポルシェ博士が初期に設計したポルシェ以外の車両である。最新モデルや、いわゆるロードバーションのクルマは、初期の356以外ディスプレイされていなかった。

設計番号「007」に潜むポルシェ博士の哲学と見栄

ポルシェ以外のモデルとして展示されていたのが、ヴァンダラーW22と呼ばれるクルマだ。これこそ、フェルディナント・ポルシェ博士が設計事務所を開いて最初に手がけたモデルである。

ご存知のとおり、初期ポルシェのクルマは356や911など、数字で表示されている。これはポルシェ博士の設計ナンバーに由来し、例えば356は設計番号356となる。しかし、最初に作られたヴァンダラーW22には、ポルシェの設計番号007が打たれていた。

これは、ポルシェ博士が、仮にこのクルマに001を与えた場合、顧客に「この設計事務所にとっての初仕事である」と知られてしまい信用低下につながるのを避けるため、あえて007から始めたためだ。つまり、ポルシェには設計番号1から6は存在しない。ちなみに、有名なアウトウニオンのグランプリカーは022、フォルクスワーゲン ビートルは060である。

歴戦のレーシングマシンで見たポルシェ史

博物館の展示車両は、もともとポルシェが保有していたモデルに加え、外部から購入または交換したものがある。すなわち、個人が保有している車両をポルシェが譲り受ける代わりに、ポルシェが代替車をその個人に提供するという取引である。

その代表例が904GTSだ。10台が製作されたというワークスの904が個人所有となっていた。ポルシェがそれを譲り受ける代わりに、当時の最新鋭モデルだった911カレラRS2.7がその個人に譲渡された。その個人とは、ヨルダンのフセイン国王であった。

初めてル・マンを制した917は2台が展示されていた。このうちの1台は1970年に初優勝を遂げた#23で、シャシーナンバーは917023である。もう1台は1971年に出場したロングテールのマシン(ドイツ語でランクヘック)だ。こちらは最高速度386km/hを記録したが、リアサスペンションに負荷がかかりリタイアした。

1948年6月8日、設計番号356として産声を上げたモデルも展示されている。当初K45・286というナンバープレートを付けていたが、その年にスイス、チューリッヒの愛好家R.フォン・ゼンガー氏に売却され、1度だけレースに出場した。その後1953年に再びポルシェが買い戻した状態で展示されていたが、現在はオリジナルのボディに戻されているようだ。

車重382kgで270馬力など過激なヒルクライムマシンが並んでいた

1960年代、ポルシェはしばしばヒルクライムで勝利を収めた。博物館にはその専用のヒルクライムマシン「ベルクシュパイダー」が2台展示されていた。1台は909、もう1台は910である。疑問符(?)が付く読者も多いだろう。それもそのはずだ。906の後継車として作られた910は、元来サーキット用のマシンだが、これをベースにヒルクライム専用に作られた910ベルクシュパイダーが存在する。

ヒルクライムは重量制限がないため、チタニウムを多用した910ベルクシュパイダーは、車両重量が驚きの382kgであった。これに2Lフラット8(水平対向8気筒)、270bhpを搭載していたのだから、速いのは当然である。これを操ったゲルハルト・ミッターは1967年、1968年にチャンピオンに輝いた。

もう1台の909は、2回のレース出場を記録しただけで優勝はなかった。もっとも、そのコンセプトは後の908-03に受け継がれている。

さらにもう1台、重要なクルマはチシタリアのために設計したグランプリカーである。1.5Lフラット12(水平対向12気筒)、スーパーチャージャー付きのこのマシンは、残念ながら1度もレースに参戦しなかった。しかも4WDである。

ポルシェ博士はフランスに捕らわれの身であり、設計開発はフェリー・ポルシェと当時の設計部長だったカール・ラーベが行った。一説によると、この開発費用がポルシェ博士救出に使われたとも言われている。

このように、当時のミュージアムにはポルシェのコアな歴史が凝縮されていた。

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