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ボルボ・ミュージアム誕生に存在した“秘密の倉庫”!メーカー誕生の意外なる真実【クルマ昔噺】

ボルボ 262はベルトーネ・デザインだった

自国販売より輸出に力を注入して提携を繰り返したボルボの歴史

モータージャーナリストの中村孝仁氏の経験談を今に伝える連載。「ボルボ・ミュージアム」と検索すると、今は最新施設「ワールド・オブ・ボルボ」が表示されます。この新しいワールド・オブ・ボルボが開館したのは2024年のことで、それ以前は「ボルボ・ミュージアム」として1995年から2023年まで存在していました。今回は、旧ミュージアム誕生前の話から、ボルボというブランドが歩んできた独自の歴史と思想をたどります。

ミュージアム開館準備中の「秘密の倉庫」を訪問

フィアットなどと同様に、ボルボの製品も陸・海・空の多岐にわたり、自動車だけでも乗用車から大型のトラックまでワイドな商品構成を誇っていた。マリンレジャーを楽しむ人なら、ボルボ・ペンタのプレジャーボート用エンジンにお世話になった日本人も、少なからずいるはずである。

1995年に開館したボルボ・ミュージアムには、そんな陸・海・空のボルボ・プロダクツが展示されていた。じつは筆者がその建物を訪れたのは開館前。すなわち、ボルボがかつてのモデルを集め、ミュージアム開館の準備をしている段階の、言わば「倉庫」だった。

なかは薄暗く、とても人に見せるための展示という状況ではなかったが、歴史を彩ったボルボたちが、ひっそりと我々を迎えてくれた。実際にここを訪れたのは1990年代の半ばごろだと記憶するが、正確な年月は定かではない。ただ、ボルボ・ミュージアムのオープンが1995年だから、それよりも前であることは間違いない。

ベアリングメーカーが商標登録していた名称を自動車へ

ご存じの方も多いかもしれないが、ボルボがクルマを作り始めたのは1927年。最初に作ったクルマは「ÖV4」と呼ばれるオープンモデルで、「ヤコブ」というニックネームがついていた。

創業者として知られるのは、アッサー・ガブリエルソンとグスタフ・ラーソンのふたり。ともにスウェーデンのベアリングメーカー「SKF」の社員で、そもそも「ボルボ」という名称も、SKFが自社の商品に名付ける予定で商標登録したものであった。ところがSKFはそれを使わず、創業者のふたりがSKFグループ内で、その名称を使った自動車を開発したところから歴史が始まるのである。

商用車の成功で一躍有名に!乗用車部門は独立して国際提携

広くヨーロッパに知られるようになるのは、2台目に作ったトラックの評判がよかったからである。第二次大戦前にすでに「ABボルボ」としてストックホルムの証券取引所に上場し、会社は順調に拡大を遂げた。同年には、のちにボルボ・ペンタ・マリンエンジンを生み出す「ペンタフェルケン」社を取得している。

1970年になると、ボルボは商用車部門により力を入れ、乗用車部門はその結果として「ボルボ・カー・コーポレーション」として1978年にボルボ・グループからスピンオフし、独立したメーカーとなるのである。

とはいえ、小国スウェーデンのメーカーが独立採算をするのは至難の業。そこでボルボはルノーとの関係を深め、1993年には合併の話まで持ち上がったのだが、ボルボ側の株主の反対にあってこの話はご破算となった。

それよりも前、1972年にはオランダのDAFの株式を33%取得。1975年にはその比率を75%にまで高め、実質的に手中に収めた。DAFはその後「オランダ・ボルボ」として共同開発モデルを生産していたが、その後ボルボが三菱と提携し、共同開発車両を作るようになると、「ネッドカー」工場として稼働した。

1999年にはボルボ・グループがボルボ・カー・コーポレーションをフォードに売却。2010年にはフォードが中国のジーリー(吉利汽車)にボルボを売却し、現在に至っている。

輸出を前提としたクルマ作りのターゲットはアメリカ市場

会社発足当時は、寒冷地スウェーデンの国情に合った丈夫で耐久力のあるクルマづくりを目指したのだろうが、その歴史を通じて輸出を前提としたクルマづくりが行われ、彼らが常に視野に入れていた市場はアメリカであった。このため、とくにデザインに関してはアメリカ志向が強い。

1935年に誕生した「PV36カリオカ」は、クライスラー・エアフローのデザインを踏襲したボルボ初の流線形スタイルであったし、残念ながら開館前の倉庫にはその姿がなかった「フィリップ」というコンセプトカーは、まさにアメリカ市場での販売を前提としたモデルだった。

日本でボルボがなじみ深いブランドになるのは、おそらく「アマゾン」と呼ばれたモデルからだろう。その後、遡って「PV544」などにもスポットが当たり、「安全」を代名詞とした140シリーズから240シリーズに進化したモデルが、日本でワゴンブームの火付け役となった。

2度目のスポーツカー生産は成功!イタリアのデザインを取り入れた

一連の歴史的ボルボを見てみると、やはり地味な印象を拭い去ることはできない。そのなかで異彩を放つのは、ボルボ史上唯一のスポーツカーとして販売された「P1900」だろう。1956年から1年間だけ販売されたこのクルマは、グラスファイバー製のボディにオープントップという、およそスウェーデンの国情には合いそうもないモデルだったが、完成度の低さと需要の低迷から生産中止になったという。

その後、多少なりともスポーツカーの雰囲気を持ったモデルが「P1800」である。当時はスポーツカーと呼べるほどの性能ではなかったことからそうは見なされなかったが、今ではボルボのスポーツカーとして認知されている。P1900と違いこちらは長命で、1960年から1973年まで生産された。1972年からは流麗なシューティングブレーク・ボディを持った「1800ES」が生産されている。

この当時からイタリアのカロッツェリアとの関係を持ったボルボは、その後もベルトーネとのつながりを深め、200シリーズのクーペに始まり、最終的には「780」というクルマにまで及んだ。

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