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ミウラ ロードスターはなぜ生産に至らなかったか? ? 謎の研究機関にバラバラにされた「幻のミウラ」の真実【ミウラ生誕60周年_07】

ILZRO ミウラ Zn75:世界中のモーターショーを巡り、数奇な運命を辿った「Zn-75」時代の貴重な野外カット

世界に1台の幻のオープン! ミウラ ロードスター

1960年代に一世を風靡した伝説のスーパーカー、ランボルギーニ「ミウラ」はご存知の通りです。ではその生産モデルのなかで、世界にたった1台しか存在しない幻のオープン仕様「ミウラ ロードスター」をご存知でしょうか? 名門ベルトーネがワンオフで製作し、謎の研究機関による大改造から奇跡の復活を遂げた、歴史的傑作の数奇な運命を今回はひも解きます。

ランボルギーニが拒否? ベルトーネが造った幻のオープン

ランボルギーニ ミウラのファーストモデルとなった「P400 ミウラ」。その生産第1号車が1966年の12月末に同社のファクトリーで完成したことは、すでに触れているとおりだ。このP400 ミウラに対する反響はフェルッチオが事前に想像していたものよりはるかに大きく、そしてもちろん好意的なものだった。

その結果、かつてランボルギーニとベルトーネの両社で合意していた「P400 ミウラを限定車として生産する」というプランは見直され、正式にランボルギーニのシリーズモデルと位置づけられるに至ったのである。

1967年から本格的にP400 ミウラのデリバリーが始まると、ランボルギーニのもとにはカスタマーからのオーダーとともに、さまざまなリクエストが届くようになる。そのなかでもとくに注目されたのは、より爽快なドライブが楽しめるファッショナブルなオープンボディのP400 ミウラを求める声だった。

ちなみにランボルギーニは1965年、カロッツェリア ツーリングに対して「350 GT」をベースとしたオープンモデル「350 GTS」のデザインを許可し、実際には2台が製作されている。しかし、P400 ミウラのオープンモデルを誕生させることについて、フェルッチオは一切の興味を示さなかった。それはエンジニアのジャンパオロ ダラーラやパオロ スタンツァーニが、強くそれを拒否していたことに大きな理由があったとも伝えられている。

専用設計のボディ! プロトタイプの域を超えた完成度

だがその一方で、P400 ミウラの流麗なスタイリングをマルチェロ ガンディーニの手によって描き出し、さらにはそのボディを製作することにも携わっていたベルトーネにとっては、きわめて魅力的なプロジェクトだった。フェルッチオからの承諾を得た後に、あくまでも1台かぎりのスタイリング プロトタイプとして完成させ、1968年のブリュッセル モーターショーで初披露したのが「P400 ミウラ ロードスター」だった。

P400 ミウラ ロードスターは、オープン化のために単にルーフを撤去しただけのモデルではなかった。驚くべきことに、ソフトトップ(幌)や脱着式のハードトップはおろか、サイドウインドウすら一切装備されておらず、雨が降ればずぶ濡れになるしかない「完全なる晴れの日専用車」であった。

さらにリアセクションでは、ミウラの象徴であるV型12気筒エンジンをカバーしていたルーバーが完全に廃止され、エンジンが外から完全にむき出しになっていた。そのため、V12の強烈な吸気音がキャビンにダイレクトに飛び込んでくるという、とんでもなく刺激的な構造だったのだ。くわえて、サイドウインドウ後方のエアインテークをより大型化するなど、独自のディテールを広範囲にわたって採用していた。

フロントウインドウの傾斜角も変更され、オープン走行時のキャビンへのエアの巻き込みを最小限に抑える効果を生み出していた。ちなみにロードスターにサイドウインドウは装備されない。またベルトーネは、フレームにもオープン化による剛性低下に対応するための補強策を施しており、その完成度はおよそスタイリング プロトタイプの域を超えたものだった。

謎の研究機関に売却! 最新素材で大改造された「Zn-75」

シャシーナンバー「#3498」のP400 ミウラをベースに製作されたこのプロトタイプは、1969年になるとニューヨークに本拠を構えていたILZRO(International Lead and Zinc Research Corporation=国際鉛亜鉛研究公社)に販売される。当時このILZROで副社長の職を務めていたシュラード F ラドッケは、ランボルギーニにP400 ミウラのオープンモデル製作をもっとも早くリクエストした人物のひとりだった。

彼はランボルギーニからP400 ミウラが発表されると、それをベースにILZROが誇る新素材を採用したプロモーション用モデルを独自に製作することを計画するが、フェルッチオがそれを認めることはなかった。だがそれから数年の時を経た後に誕生した、ベルトーネのスタイリング プロトタイプ「P400 ミウラ ロードスター」の存在を彼は見逃さなかった。

ベルトーネからそれを購入することに成功すると、ロードスターはすぐにニューヨークへと運ばれた。可能なかぎりのパーツが亜鉛などの最新素材で再構築され、新たに「Zn-75」という車名が与えられた。

バンパーやホイール、マフラー、さらにはステアリングのスポークやシフトノブに至るまで、ありとあらゆるパーツを亜鉛合金や鉛などで作り直して装着した結果、本来は軽量なスーパーカーであるはずのミウラが、信じられないほど重くなってしまったという本末転倒なエピソードも残されている。ちなみにそのプロジェクトを率いたのは、フォードのデザイナーであったジョン フォスターである。

オリジナルのP400 ミウラ ロードスターではライトブルーが選択されていたボディカラーも、この時にモスグリーンへと変更されている。そしてZn-75は世界中のモーターショーを巡り、ILZROのプロモーションという目的を果たした後は、ラドッケ自身が所有するところとなった。

奇跡のフルレストア! 姿を消したロードスターの復活劇

さらに1980年代後半にはボストンのブルックライン交通博物館へと寄贈されたZn-75は、それから再びアメリカや日本などのコレクターの手に委ねられていくことになる。

しかし、2008年にアメリカの地で徹底的なフルレストアを受け、本来の「P400 ミウラ ロードスター」の美しいライトブルーの姿でペブルビーチ コンクール デレガンスに登場し、見事にクラス優勝を飾った。その後も、より正確な1968年当時のディテールが忠実に維持され、現在に至る。

ベルトーネによってスタイリング プロトタイプとしてワンオフ製作されたP400 ミウラ ロードスター。それは一連のミウラ シリーズのヒストリーを語るうえでは欠かすことのできない、きわめて貴重な伝説のモデルなのだ。

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