サイトアイコン AUTO MESSE WEB(オートメッセウェブ)

新車のマセラティ「ギブリ」を運転! V12至上主義者には、V8は格下に思えてました【クルマ昔噺】

1966年から1973年まで生産が行われた

狭い思いをして3人乗車した記憶が懐かしい!

モータージャーナリストの中村孝仁氏が綴る昔話を今に伝える連載。第5回目はド新車で輸入された「マセラティ ギブリ」との出会いを振り返ってもらいました。

V8を搭載したマセラティにはあまり興味が持てなかった

カーグラフィックの1972年1月号で、Magnificent Three from Italy特集があって、当時のフェラーリ365GTB4デイトナやランボルギーニ ミウラ、マセラティ ギブリの3台が紹介されていた。ギブリを除けば搭載されるエンジンは12気筒で、ギブリだけがV8であった。

誠にお恥ずかしい話ではあるが、当時の僕の思考ではV8はV12より下、という格付けで、それゆえにギブリがあまり好きになれなかった。まだ若かったこともあって、スーパースポーツはV12じゃないと……と、かなり偏向した考えに凝り固まっていたから、V8を搭載したマセラティには正直言ってあまり興味が持てなかったのである。

その考え方を変えてくれたのは、のちにガレージ・イタリアを設立した林 良至氏だった。林さんはマセラティのグランプリカーのコレクターとしても知られた人で、よくそのグランプリカーをサーキットでドライブされていた。

そして、その林さん曰く、「クルマの作りの良さという点では当時のマセラティは素晴らしかった。フェラーリなんて問題じゃないね……」と。実際に所有されて比較された人の言葉だから重かった。それ以来、マセラティに対する興味がわくようになったのである。

もう40年以上前の記憶だからあまり定かではない。でもここに紹介するマセラティ ギブリは、4.9Lのパワーユニットを搭載した後期型のSSのはずである。当時、マセラティはギブリを筆頭に、ボーラとメラクも輸入されていた。

ただし、これらのモデルは僕の会社が導入したものではなく、いわゆる委託として展示していたもの。このギブリを含め何台かを当時始まったばかりだった名古屋レーシングカーショーに出品して展示した。まだまだこうしたクルマが非常に珍しかった時代である。

ド新車のギブリはそれほど速いという印象はなかった……

当時、僕はすでにフェラーリが最新(当時は)だったデイトナや、ランボルギーニ ミウラなどに乗った経験があった。僕の会社にあったマセラティ ギブリは勿論ド新車。5速マニュアルを装備したモデルだったが、特にミウラなどと比べるとそれほど速いという印象はなかった。

フェラーリは全開にしていないので比較のしようがない。ただ、正直言ってほかの全開にした経験のあるフェラーリの何台かはそれほど速いとは思わなかった。とにかく速いと思ったのはポルシェカレラRSであり、ミウラであった。

ただ、その湧き上がるようなフェラーリのV12サウンドは若造の胸をぎゅっとつかんで離さなかったことだけは確かだ。いずれにしても、ド新車のマセラティ ギブリをドライブできたのだから、貴重な体験である。当時もっとクルマのことがわかっていれば、さらに大きな財産だったのだが……。

ギブリが誕生したのは1967年のこと。イタリアは不思議な国で、多くの自動車メーカーはレーシングカーを作る傍らで少量のロードカーを作るという慣習があり、アルファ ロメオしかり、フェラーリしかり、そしてマセラティも例外ではなく、量産モデルを作り始めたのは実に戦後のことなのである。だから搭載されるエンジンがレーシングカー由来となるのはごく当然で、ギブリのV8エンジンはレーシングカーの450S直系のエンジンである。

このエンジン、初めは5000GTと呼ばれるモデルに搭載され、その後、ギブリに搭載されることになった。純粋なV8を積むスポーツモデルとしては、ギブリはこの5000GTの後継車にあたる。このためドライサンプの潤滑方式を持ち、それゆえにエンジンフードを低めることができた。

ツインカムエンジンを搭載していたギブリ

ダウンドラフトのV12エンジンを積んだフェラーリ365GT2+2と比較すると、はるかにフードが低いことがわかる。また当時からすでにDOHCを採用しており、高回転まで回ることからそのサウンドも、俗にいうアメリカンV8とは大きく異なるものだった。余談ながら当時のフェラーリの主力エンジンはほぼSOHCで、DOHCは一部の限られたモデルだけだった。

デザインしたのはジウジアーロである。ベルトーネを退職し、カロッツェリア・ギアに在職していた時代で、この時代のギアは毎年のようにオーナーが変わる不安定な時代。ジウジアーロもいにくかったのか、在籍したのは1966年から1968年までの2年間だけである。同じギア在職時代に彼はいすゞ117クーペをデザインしている。

残念ながら当時いくらで販売したかは覚えていない。このクルマ、こう見えても一応2+2というレイアウトを持ち、決して使える代物ではないが、リアシートが存在した。名古屋に持って行った時だったか、狭い思いをして3人乗車した記憶がある。

こちらも残念ながらリアの写真が残っていないが、多くのギブリがリアに4本のマフラーを出していたのに対し、僕の会社にやってきたモデルはマフラーエンドを大きく曲げて横に2本出ししていた。しかも排気管が非常に太かったのが印象的だった。

■「クルマ昔噺」連載記事一覧はこちら

モバイルバージョンを終了