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ポルシェ「904 カレラ GTS」との出会いは突然に…コクピットに招き入れてくれたのは式場壮吉氏その人でした【クルマ昔噺】

ポルシェ 904 カレラ GTS:ボディはハインケルが担当した

雨に濡れたポルシェ 904 カレラ GTSのコクピットに収まる

モータージャーナリストの中村孝仁氏が綴る昔話を今に伝える連載。今回は日本のモータースポーツシーンにおいて、衝撃を与えたポルシェ「904 カレラ GTS」を振り返ってもらいます。

ポルシェと日本のレース界は密接な関係

ポルシェと日本のレース界は、とても密接な関係を持っていると思う。最初に登場したのは1963年の第1回日本グランプリ。この時はのちにポルシェのレーシング・マネージャーとなる、フシュケ・フォン・ハンシュタインが、本国から「356」ベースの高性能モデル、「カレラ 2000GS」を持ち込んだ。

そして第2回日本グランプリには、突如として当時ポルシェ最強のマシンであった「904 カレラ GTS」が姿を現した。必勝を期して2L直6エンジンを搭載した「スカイライン」の前に立ちはだかり、優勝をさらっていった。それ以降も第3回グランプリには「カレラ6」が出場。そして第5回グランプリにはポルシェ・ワークスの「917」を筆頭に「908」、そして「910」等が参加してレースを大いに盛り上げた。

モンテカルロラリーにも出場していた

今回取り上げるクルマは904 カレラ GTSである。このクルマは1963年に、FIAのGTクラス参戦を目標に開発・設計されたマシンだ。当時のレギュレーションであるグループ3アペンディックスJ2というカテゴリーに準拠するため、100台を生産する必要があったのだが、いざそれをアナウンスすると100台を超えるオーダーがあり、106台が生産されたとされている。

その恐るべき柔軟性はレーストラックのみならず、ラリーフィールドにも姿を現し、1965年のモンテカルロラリーでは総合2位に入る快挙を達成している。

エンジンは当時ポルシェの主任設計者だったエルンスト・フールマンによってデザインされたもので、構造的に極めて複雑だったそうだが、一方で耐久力があり、それが大きな武器となってル・マンなどの耐久レースで活躍した。1964年のル・マンでは総合7位、もちろん2L以下のクラスウィンを勝ち取った。他にタルガフローリオやニュルブルクリンクでは総合優勝も勝ち取っている。

ボディはハインケル社に依頼

ボディをデザインしたのはフェリー・ポルシェの長男であるアレキサンダー・ポルシェ、通称ブッツィ・ポルシェである。彼は1957年にポルシェ社に入社。当時ポルシェのデザイン・ディレクターだったエルヴィン・コメンダのもとで頭角を現し、初の大仕事として任されたのが「911」のデザインであった。そして904 カレラ GTSも彼の手になる作品である。

グラスファイバー製のボディは、樹脂製作に経験がある航空機メーカーのハインケル社に依頼。フレームワークは経済的な問題からチューブラーフレームではなく、鋼管ボックス型フレームが採用された。ブッツィが亡くなる直前に会った人の話によれば、904 カレラ GTSが最も気に入っているデザインのひとつだと話していたそうである。

904との出会いは突然だった

残念ながら、904 カレラ GTSをドライブした経験はない。しかし、じつに素敵な体験をしている。それは1964年も押し迫った頃の話であるが、我が家の家業は洋服屋である。まだ、オートクチュールなどという言葉が流行る前の時代だったが、そのオートクチュールの仕事をしていた。叔父は有名な服飾デザイナーだったが、父親はいわゆる一匹狼で、叔父の会社に入るのを拒み、独立した店を構えていた。その小さな洋服屋(婦人服専門である)で、一大イベントのファッションショーを開いた。

そしてモデルとしてやってきたのがIさんという素敵な女性で、彼女は渋谷にいわゆるスナック的なお店を持っていた。ショーが終わっていざ打ち上げパーティーという時に、そのお店に行った。もちろんまだ12歳だった小学生は飲めないが、一緒に連れて行ってもらった。

宴もたけなわという時に、地下にあるお店にひとりの男性がやってきた。常連さんらしい。するとモデルを務めたIさんが突如話しかけてきた。

「タカちゃん(私のことだ)、クルマ好きなのよね。見せてもらったら?」

その男性も「じゃあ」と、私を連れて今来た階段を上がり地上に……。雨が降っていた。そして目の前に置かれていたクルマこそ、まごうことなきポルシェ「904 カレラ GTS」であった。

式場壮吉氏がドアを開け招き入れてくれた

そしてこの常連さんと思えた男性こそ、日本グランプリの優勝者、式場壮吉氏その人だったのである。ドアを開けて、「どうぞ」と小学生の私を招き入れてくれた。

式場さんはグランプリの後、このクルマを日常的に使っていたようである。その後も一度だけシルバーのボディを目黒通りで見かけたことがある。もちろん、小学生の体格だから、ステアリングに触れるにしてもシートのバックレストから背中を離し、腕を思いっきり伸ばさなければ届かなかった。ペダルには当然足も届かない。でも、グランプリ優勝マシンのコクピットに収まり、ステアリングを握るという貴重な体験をさせてもらった。

残念ながら、その後式場さんとお会いする機会はなく、雨に濡れて街灯の下に停められたシルバーの美しいボディだけが鮮烈な印象として残っている。

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