「ヴァンプラ」はまた乗りたい1台の最右翼
モータージャーナリストの中村孝仁氏が綴る昔話を今に伝える連載。今回は生まれて初めて購入したクラシックカー。ヴァンデンプラ「プリンセス」という名の小さなモデルを振り返ります。
イギリスのベストセラーだった
もちろんご存じの方も多いだろう。オースチン・ドローイング・オフィスを略して「ADO」。これがクルマに与えられたコードで、「ヴァンデンプラ」は「ADO16」の名で呼ばれた。ちなみにADO16は他にも異なるブランドのモデルがあるが、それは割愛。なので、ADOについて話をしよう。
ナッフィールド・グループというモーリスを中心にウーズレー、ライレー、MGなどが所属していた自動車メーカーと、オースチンを擁するオースチン・モーター・カンパニーが合併して完成したのが、BMC(ブリティッシュ・モーター・カンパニー)である。合併後、当時開発中だったすべてのモデルにこのADOの開発コードが付けられた。そしてADO16として開発されたのが、車名にするとBMC「1100/1300」というモデルだった。しかし、もともとはXC9002という開発コードを持ったクルマで、それが合併によってADO16となったものである。ちなみにこのひとつ前、すなわちADO15が、有名な「ミニ」である。
1960年代を通じてこのADO16は、イギリスのベストセラーカーであり続けた。ミニを差し置いてこのクルマがベストセラーであった理由のひとつが、ミニよりも広い室内空間や、使い勝手の良い4ドアモデルが存在していたこと。加えてメーカー的にはミニよりも利幅があることから、積極的に販売をしたという背景もあるかもしれない。
ダッシュボードはウォールナットの本木目を採用
ADO16に関しては、複数のブランドでバッジエンジニアリング生産されていたことは前述したが、その中でも販売の中心にあったのが、モーリスとオースチンである。驚いたことに当時、このADO16の直接のライバルはフォード「コルティナ」だったという。あちらの方がはるかに大きなクルマのようにも感じていたが、じつはインテリアスペースに関しても大きな違いがなかったそうだ。これが、FWDの強みであり、ボディをデザインしたピニンファリーナのマジックであったかもしれない。
最初にローンチされたのは1962年で、モーリス・ブランドから登場した。ヴァンデンプラがデビューするのは1963年10月のこと。そしてこのADO16の最後の生産車として、1974年6月19日、キングスバリー工場からラインオフしたのも、ヴァンデンプラ プリンセスであった。
小さいロールス・ロイスとはよく言ったもので、ダッシュボードはウォールナットの本木目。シートはコノリーレザーが使われ、フロントシートバックレストには、同じくウォールナットのピクニックテーブルが組み込まれていた。大きな批判もあるが、アレックス・モールトンが開発したハイドロラスティック・サスペンションを最初に使ったのもADO16で、その乗り心地もまたロールス/ベントレーを彷彿させる優雅なもの。まさに小型車の枠を超えたクルマでもあった。
インテリアの状態を優先し見に行くと…
1980年代後半、はっきりといつだったかは覚えていないが、独身貴族の身分を謳歌している頃で、クルマの購入にもかなりゆとりがあった。そんな時、知り合いのショップさんからヴァンプラが5台、イギリスから輸入されたという話を聞いた。原稿では書いたことがあったが、実車は触ったこともなかった。しかもショップさん、上手いことを言うもんで、「今なら5台から選び放題だよ」……。殺し文句でもあった。すぐさまクルマがあるという、東京と埼玉の県境にあったショップに赴くと、なかなか程度の良い(と思えた)5台のヴァンプラが並んでいた。
通常、クルマ選びはエンジン、サスペンション、ブレーキなどいわゆる機関が優先されるものだが、ヴァンプラの場合はそうではなくて、ウッドパネルの状態やピクニックテーブルの反りなど、むしろ調度品ともいえるインテリアの状態を優先した。車両はどれをとっても200万円ぽっきり。この価格は当時も今もほとんど変わらないように思う。そして「とりあえず見に行こう」は、いつの間にやら「どれを買おう」に変わり、数時間後には白いボディのヴァンプラをご購入……となったのである。
まだイギリスのナンバーが付いた状態のモデルだから、納車までは確か10日ほどかかったように記憶するが、購入したのは後期型の1300、4速マニュアルのモデルだった。帰りの自宅までの道のりは、まるでロールス・ロイスに乗った気分。フロアカーペットも毛足が数センチほどもあるパイルカーペットが奢られ、リアシートに座ると靴底がそのカーペットで見えなくなるほど。まあ、超豪華であった。
トラブルは一度だけ。大渋滞の還八でクラッチが切れなくなり、2速に入れて直接エンジンをかけながら一番端の車線までもっていき、そこで息絶えた。原因は些細なことだったのですぐに治った。以来全くのノートラブルで半年が過ぎたが、蜜月はそれで終わり。自分にとっては憧れだった別のクルマのオファーがあって、あっさりとそちらに乗り換えたためである。また乗りたい1台の最右翼。でも優良な個体はどんどんなくなっている。
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