人生初のフォーミュラレースはまさかの大雨
モータージャーナリストの中村孝仁氏の経験談を今に伝える連載。今回は、雨の筑波サーキット(茨城県)で挑んだフォーミュラレースを振り返ります。ジャーナリストとしての肩書き、伝説のマシンとの出会い、そして「絶対に壊すな」という言葉に背筋を伸ばす思いで走らせました。そのときのフォーミュラマシンに秘められた興奮と緊張感をお届けします。
身ひとつでレースを楽しめる仕組みを作った「プレ85フォーミュラクラブ」
フォーミュラカーには何度か乗ったことがあるが、レースをしたのは2回だけ。しかも2回とも土砂降りの雨が降る筑波サーキットであった。
ことの発端はこうだ。当時、CGコンペティションというイギリス車を専門に扱うショップが、「プレ85フォーミュラクラブ」という組織を立ち上げた。その名のとおり1985年以前に作られたフォーミュラカーでレースをする、アマチュアレーサーのクラブである。
クラブに入会すると、マシンのメンテナンスやレースのための準備はすべてショップが行ってくれるので、クラブ会員は身ひとつでサーキットに行き、本格的なフォーミュラでレースが楽しめる。レースが終わればマシンは再びショップが管理し、次のレースに備えるというものだった。
マシンは基本的にF3が大半で、一部フォーミュラ・フォードなどもあった。速かったのはラルトF3である。さすがにフォーミュラに乗ろうというドライバーたちだけあって、皆さんそれなりに腕の立つ人ばかり。土砂降りの雨の中でも筑波を1分10秒ほどでラップする。
なぜ私がこのレースに参戦したかというと、ジャーナリストという肩書を持ち、(当時は)露出する媒体を持っていたから、参戦レポートを書いてプレ85フォーミュラレースとクラブの認知度を高めてほしいというのが、CGコンペティションのオーナーだったKさんの要望だった。そんなわけで、マシンは当然あちらが用意してくれ、私はレースを楽しませてもらった。
私に与えられたのはヴァンディーメンRF82というマシンだ。ヴァンディーメンは、1973年にイギリスのノーフォーク州スネッタートンで産声を上げたレーシングカーコンストラクターで、設立者はロス・アンブローズとラルフ・ファーマン・シニアのふたり。ヴァンディーメンとは、オーストラリアのタスマニア島に由来し、かつてヴァンディーメンズランドという名で呼ばれていた。
そして設立者のひとり、ロス・アンブローズがその島の出身で、イギリスに移住するまで住んでいたことからつけられた名前なのだそうだ。ちなみに、もうひとりの設立者ラルフ・ファーマン・シニアの息子、ラルフ・ファーマン・ジュニアは、ジョーダン・グランプリからF1でレースをして、さらに日本のフォーミュラ・ニッポンやスーパーGTなどでも活躍したから、ご存じの読者も多いかもしれない。
さて、そのヴァンディーメンは、1973年にフォーミュラ・フォードを作り上げると、いきなりその年のBRDCフォーミュラ・フォードチャンピオンシップで優勝を勝ち取った。その後も数多くのレースでチャンピオンとなったことから、すぐに著名なコンストラクターに上り詰めた。
なんとアイルトン・セナがシリーズ優勝したマシンで参戦した!?
ヴァンディーメンで登竜門レースを勝ち上がり、F1に上り詰めたドライバーは数多くいる。ロベルト・モレノ、ラウル・ボーゼル、ジョナサン・パーマーなどがいるが、なんといってもF1でチャンピオンに上り詰めたアイルトン・セナを忘れるわけにはいかない。セナは1981年のヨーロッパにおけるデビューシーズンで、ヴァンディーメンに乗り、BRSCCとRACのフォーミュラ・フォード1600でチャンピオンを獲得。翌1982年にはイギリスおよびヨーロッパのフォーミュラ・フォード2000選手権のチャンピオンに輝いている。とくにイギリスのフォーミュラ・フォード2000では17レース中15レースで勝利したというから、圧倒的な勝ち方であった。
そのときに乗っていたマシンがヴァンディーメンRF82だったのである。K氏曰く、マシンを貸し与えるにあたり「絶対に壊すな」が条件であった。それは私が乗ったマシンは、まさにアイルトン・セナがドライブしたマシンだったからである。もちろんシャシーナンバーを確認していないので真偽のほどは不明だが、でもそんなマシンに乗れたことはじつに光栄なことであった。
筑波のレースは2回出場して、2回とも大雨だった。どちらも完全なウェットコンディションでのレースだった。練習走行などではそれなりにドライで走ったものの、本番はとにかくほとんど前が見えない状況。初めてフォーミュラカーの雨のレースで後ろにつくと、いかに前が見えないかを痛切に体験した。
視界ゼロのなかでのスピンとガードレール寸止め
バトルも体験した。相手は現在同業者のMさんで、あちらはたしかマーチだったかのF3。だから当然、ストレートでは離されてしまうのだけれど、コーナーで詰めてあと一歩というところまでいった。だが、ちょうど5番ポスト付近、ダンロップゲートをくぐった先で見事にスピンして、抜くまでには至らなかった。そのスピンも果たして何回転したかわからないほどくるくる回り、最後はガードレールまでほんの数十センチで止まってくれた。「絶対に壊すな」が頭をよぎり、冷や汗をかいたものである。
今もフォーミュラの研ぎ澄まされた走りが忘れられない。さすがにこの歳になるとフォーミュラでレースをしようとは思わないが、流す程度ならもう1度走ってみたいと思う今日この頃である。
■「クルマ昔噺」連載記事一覧はこちら
