日本の自動車黎明期に国産メーカーが頼りにしていたカーデザイナー
モータージャーナリストの中村孝仁氏の経験談を今に伝える連載。自動車史において名だたるデザイナーは数多くいますが、日本のメーカーが早い段階から深い関わりを持った人物といえば、ジョヴァンニ・ミケロッティです。BMWやトライアンフ、さらにはアルピーヌA110といった名車を生み出した彼の作品群は、1200点以上にものぼります。今回は、筆者が1979年にミケロッティの知られざる功績と日本車との縁をたどります。
イタリア初の自動車デザインに特化したスタジオを設立
皆さんはジョヴァンニ・ミケロッティというカーデザイナーをご存じだろうか。2025年の春、日本に大御所のジウジアーロがやってきて、多くのファンがトークショーに釘付けになった。しかし、日本の自動車メーカーが初期にもっとも繋がりを持ったのは、ミケロッティである。
ミケロッティは1921年にトリノで生まれた。彼の両親についてはほぼ語られておらず、いつどこでクルマに目覚めたのかは定かではない。高校を中退し、当時のスタビリメンティ・ファリーナに入り、カーデザインの道へと進む。ちなみにスタビリメンティ・ファリーナは、のちのピニンファリーナ社である。その後1949年に自らの工房を設立した。それもイタリアで初めて、自動車ボディデザインに特化したプロフェッショナル・スタジオを立ち上げたのである。
フリーランスとしてさまざまなカロッツェリアにデザインを供給
その名はストゥディオ・テクニカ・デザイン・カロッツェリア・ミケロッティ。初期にはジョヴァンニの名も入っていたようだが、ご本人に最後にいただいたレターヘッドにはそう書いてあった。カロッツェリアと名が付けば、工房から生み出されたクルマにはその工房のエンブレムが付くのだが、ミケロッティが選んだ道は、フリーランスのカーデザイナーとしての道であった。そのため、いわゆる弱小カロッツェリアでデザイナーを擁していない工房からのデザインなどを請け負って仕事をしていた関係もあって、生涯で彼が生み出したデザインの数は1200以上に及ぶ。これほど多作なデザイナーはおそらく彼をおいて他にいない。
そんなミケロッティに会いに行ったのは、1979年のことだ。たまたま、数少ないミケロッティの名を持つコンセプトモデルを入手した日本の電機メーカー、ウシオ電機のご厚意で、日本にやって来る前の2台のコンセプトモデルを、イタリアで試乗することが許されたからだ。既に癌を発症していたミケロッティ氏だが、当時はまだとても元気そうに見えた。しかし、その1年と数カ月後に彼は他界している。
イタリア国内で試乗したのは、日本に持ってくる2台のモデル(レーザーとミザール)の他に、フィアットの126や127をベースとしたファンカーの試乗も許された。それを街に乗り出すために、わざわざTO 960の仮ナンバーを私に託してくれた。
イタリアのカロッツェリアは、ベルトーネを訪れたことがあるが、その規模は大きく異なる。ベルトーネはちょっとした自動車工場の様相を持っていたのに対し(実際に量産工場を持っていた)、ミケロッティは小さなスタジオとクルマを作る工場風の工房があるだけで、それがまさにフリーランス・カーデザイナーとしての立ち位置だったのかもしれない。
BMWを救いトライアンフのほぼ全車種を手かけたデザイン力
それにしても1200以上という多作な彼は、歴史に残る名車を多数残している。その一部を紹介するが、とくに密な関係を持っていたのはBMWやブリティッシュ「レイランド」、なかでもトライアンフとの縁が深かった。
BMWがミケロッティと関係を持ったのは1958年頃のことだ。当時、BMWのラインナップは上級の「501/502」あるいは「503」や「507」などいわゆる高級車と、「イセッタ」というバブルカーともいうべきマイクロカーというラインナップで、いわゆる中間が抜けたある意味いびつな車種構成であった。このため販売不振に陥り、一時はダイムラー・ベンツに買収されるという話まで出た時期である。
どうしても欲しかった小型車を、イセッタを拡大したイセッタ600で凌ごうとしたがそれも無理で、ミケロッティがこのイセッタ600をベースに作り上げた700の大ヒットによって、BMWは光明を見出し、自信と資金を取り戻した。そして、BMWが次にミケロッティに依頼したのが「ノイエ クラッセ」、すなわちのちの「2002」に繋がる1500セダンであった。逆スラントのフロントデザインを採用したのは、ヨーロッパではこのクルマが最初かもしれない。これによってBMWの地位は確固たるものとなり、現代に続くハイエンド・ブランドに成長していくのである。
BMW同様、ミケロッティとの繋がりが密だったのが、イギリスのトライアンフだ。1959年にヘラルドを作り上げたのを皮切りに、トライアンフはミケロッティにその後のデザインを依頼した。1961年には「TR4」、1962年には「ヴィテス」、1963年にはトライアンフ「2000」、同じ年に「スピットファイア」もデビューし、トライアンフのラインナップのほとんどがミケロッティ・デザインとなったのである。
そしてもう1台、忘れられないモデルがアルピーヌ「A110」である。あえて説明するまでもないほど美しいコンパクトなスポーツカーだ。他にもヴィニアーレから送り出されたマセラティ「セブリング」もデザインはミケロッティであった。
プリンス自動車や日野自動車との出会い
さて冒頭に話をした日本メーカーとの繋がりだが、1960年に当時のプリンス自動車が、スカイラインベースのスポーツカーである「スカイラインスポーツ」をトリノショーでワールドプレミア。1962年から市販されたが高価な値段が災いし、販売台数は極めて少なかった。続いて1962年には日野からコンテッサが誕生。それをベースとした優雅なスポーツモデル、コンテッサ・スプリントがミケロッティ・デザインで誕生している。しかし、これが市販されることはなく、1964年に2代目のコンテッサが、やはりミケロッティ・デザインで登場している。ジウジアーロが頭角を現すのはこの頃からで、日本に影響力を与えたのはそれよりもだいぶ後のことだ。この時代の日本車は、とくにヨーロッパ、それもイタリアン・カロッツェリアに学ぶところが多かったのである。
■「クルマ昔噺」連載記事一覧はこちら
