BMWを救いトライアンフのほぼ全車種を手かけたデザイン力
それにしても1200以上という多作な彼は、歴史に残る名車を多数残している。その一部を紹介するが、とくに密な関係を持っていたのはBMWやブリティッシュ「レイランド」、なかでもトライアンフとの縁が深かった。
BMWがミケロッティと関係を持ったのは1958年頃のことだ。当時、BMWのラインナップは上級の「501/502」あるいは「503」や「507」などいわゆる高級車と、「イセッタ」というバブルカーともいうべきマイクロカーというラインナップで、いわゆる中間が抜けたある意味いびつな車種構成であった。このため販売不振に陥り、一時はダイムラー・ベンツに買収されるという話まで出た時期である。
どうしても欲しかった小型車を、イセッタを拡大したイセッタ600で凌ごうとしたがそれも無理で、ミケロッティがこのイセッタ600をベースに作り上げた700の大ヒットによって、BMWは光明を見出し、自信と資金を取り戻した。そして、BMWが次にミケロッティに依頼したのが「ノイエ クラッセ」、すなわちのちの「2002」に繋がる1500セダンであった。逆スラントのフロントデザインを採用したのは、ヨーロッパではこのクルマが最初かもしれない。これによってBMWの地位は確固たるものとなり、現代に続くハイエンド・ブランドに成長していくのである。
BMW同様、ミケロッティとの繋がりが密だったのが、イギリスのトライアンフだ。1959年にヘラルドを作り上げたのを皮切りに、トライアンフはミケロッティにその後のデザインを依頼した。1961年には「TR4」、1962年には「ヴィテス」、1963年にはトライアンフ「2000」、同じ年に「スピットファイア」もデビューし、トライアンフのラインナップのほとんどがミケロッティ・デザインとなったのである。
そしてもう1台、忘れられないモデルがアルピーヌ「A110」である。あえて説明するまでもないほど美しいコンパクトなスポーツカーだ。他にもヴィニアーレから送り出されたマセラティ「セブリング」もデザインはミケロッティであった。
プリンス自動車や日野自動車との出会い
さて冒頭に話をした日本メーカーとの繋がりだが、1960年に当時のプリンス自動車が、スカイラインベースのスポーツカーである「スカイラインスポーツ」をトリノショーでワールドプレミア。1962年から市販されたが高価な値段が災いし、販売台数は極めて少なかった。続いて1962年には日野からコンテッサが誕生。それをベースとした優雅なスポーツモデル、コンテッサ・スプリントがミケロッティ・デザインで誕生している。しかし、これが市販されることはなく、1964年に2代目のコンテッサが、やはりミケロッティ・デザインで登場している。ジウジアーロが頭角を現すのはこの頃からで、日本に影響力を与えたのはそれよりもだいぶ後のことだ。この時代の日本車は、とくにヨーロッパ、それもイタリアン・カロッツェリアに学ぶところが多かったのである。
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