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時間切れが生んだ傑作! ランボルギーニがトリノショーで発表したV12横置きシャシー「TP400」の衝撃【ミウラ伝説】

ランボルギーニはこのローリング・シャシーをベースに、これからどのようなモデルを誕生させようというのか…話題を呼んだ

若き才能ガンディーニに託したランボルギーニミウラ誕生前夜までの驚愕の真実とは!?

1965年トリノ・ショーでランボルギーニがシャシーのみで展示した「TP400」は、なぜ世界を熱狂させたのでしょうか。フェラーリとの密接な関係、経営難……。名門カロッツェリアが交錯するなか、ランボルギーニが未来を託したのは無名の青年、マルチェロ・ガンディーニでした。流麗なボディに隠された驚きの逸話と、伝説の始まりを紐解きます。

ミッドシップ横置きV12シャシー「TP400」
ボディ無きままトリノで衝撃デビューしたワケ

1965年11月3日に開幕した第47回トリノ・ショー。ここでランボルギーニが、ジャンパオロ・ダラーラをチーフ・エンジニアとして開発された、4LのV型12気筒エンジンをリアミッドに横置き搭載するローリング・シャシー(エンジンと車輪、骨組みだけの走行可能な状態)「TP400」を初公開したことは、すでに触れたとおりだ。

ちなみにこの時ランボルギーニは、ほかにも生産第1号車となった「350GT」を出品していた。そのほかにも、カロッツェリア トゥーリングのブースでは、350GTをベースとして製作されたオープンモデルの「3500GTS」も発表。イタリアの高級車市場におけるランボルギーニというメーカーの存在感は、すでに大きなものになりつつあった。

 

だが、同社のブースを訪れた者の多くからもっとも熱い視線が注がれたのは、やはりTP400にほかならなかった。ランボルギーニはこのローリング・シャシーをベースに、これからどのようなモデルを誕生させようというのか。それはこれまでの常識を覆したロードカーであるのか、あるいはレーシングカーであるのか。そこにさまざまな予想が交錯していたのは言うまでもない。

提案されたボディデザインはすべて却下!
時間切れの「シャシー展示」が功を奏した!?

そもそもランボルギーニはなぜ、このショーでローリング・シャシーのTP400を披露するに至ったのだろうか。時間軸をさかのぼっていくと、じつはランボルギーニの社内ではTP400の開発プロジェクトが進行していくのに並行して、それに組み合わされるボディのスタイリングも検討されていたという事実が浮かび上がってくる。

実際にそのデザインには、かつて「350GTV」を描いたフランコ・スカリオーネ、そして350GTをデザインするとともにボディ製作をも請け負っていたカロッツェリア・ツーリングも関係していた。だが、彼らが提案したデザインはいずれも採用されることはなかった。つまり、ローリング・シャシーであるTP400が1965年トリノ・ショーで発表された背景には、デザインの決定が間に合わなかった「時間切れ」という物理的な事情があったのである。

だがそれは、結果としてTP400への注目度を高め、大きな話題を呼ぶ直接の理由となった。ショーの期間中、ランボルギーニのブースには、フェルッチオからTP400のボディをデザインしたいという意思を伝えるための、カロッツェリアからの訪問が後を絶たなかったという。

新進気鋭のガンディーニを大抜擢!
無限の才能と可能性にTP400を託す

その結果フェルッチオが決断したのは、彼自身が語ったところによれば、最後にブースへと姿を現したヌッチョ・ベルトーネ率いるカロッツェリア・ベルトーネにデザインを委ねることだった。フェルッチオのもとを訪れたカロッツェリアの代表的なところには、ピニンファリーナやツーリングなどの名前があったが、前者はフェラーリとの関係があまりにも密接であり、また後者は経営状態が相当に悪化していた。そのため、新型車のデザインを委ねることは不可能であると判断されたのだ。

一方で当時のベルトーネは、ジョルジョット・ジウジアーロから、マルチェロ・ガンディーニにチーフを交代させた直後だった。ガンディーニは、ダラーラやスタンツァーニ、あるいはウォレス氏といったTP400プロジェクトを進めた主要なメンバーと同年代の新進気鋭の存在だった。フェルッチオはこれまでベルトーネが残してきた実績と、ガンディーニが持つに違いない無限の才能と可能性にTP400の未来を託したのだ。

ミウラのデザインはジウジアーロ氏によるものなのか、それともガンディーニによるものなのか。この論争は長くスーパーカーのファンはもちろん、歴史家の間でも繰り返されてきた。だが、その流麗なスタイリングは確かにガンディーニによって描かれたものにほかならない。彼はTP400の発表からわずかな時間で最初のレンダリングを完成させると、ベルトーネは直後にそのデザイン・プロトタイプを製作した。

それに満足したフェルッチオは、プロジェクトの進行にゴーサインを出すと同時に、1966年のジュネーブ・ショーにこのプロトタイプを出品することを計画した。ただし、この段階ではまだ「ミウラ」というネーミングは掲げられていなかった。
フェルッチオはなぜそれをミウラと命名するに至ったのか。ミウラ誕生のストーリーは続く。

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