6気筒2.8Lエンジンを搭載する特別な「セドリック スペシャル」
かつてクルマ好きの間では日産「セドリック」、プリンス「グロリア」、トヨペット「クラウン」を一括りにした”セドグロクラウン”なる言葉がよく使われていました。それはすなわち軽自動車や大衆車に対し、国産乗用車ヒエラルキーの頂点クラスを意味する言葉。長きにわたり、そんな”国産高級車セグメント”の一翼を担ってきたのがセドリックです。今回は、2.8L6気筒エンジンを搭載する「セドリック スペシャル」を紹介します。
ブルーバードの上を担った日産の挑戦
大衆車クラスのベストセラーであった日産「ダットサン ブルーバード」のひとクラス上、ライセンス生産が行われていた「オースチンA50 ケンブリッジ」に代わるモデルとして初代セドリックがデビューしたのは1960年のこと。ちなみにその車名はフランシス・バーネットが1886年に書いた児童向け小説『小公子』の主人公の少年の名から。日本でも明治時代から広く親しまれてきた物語だ。
1960年から1965年にかけて生産された初代セドリック。日産初の6人乗り・1.5L 4気筒の中型セダンとして1960年4月にデビューしたが、その後まもなく小型車規格が排気量2Lにまで拡大されたのを機に、1960年の秋には早くも1.9Lエンジン搭載車を追加。
さらに1962年には大規模なマイナーチェンジが行われ、ヘッドライトがそれまでの縦4灯から横4灯となり、フロントグリルの印象を大きく変えた。一般的にはこの2Lクラスが当時の個人ユーザーの上限といわれていたが、1963年にはセドリックにさらに上級グレードを追加。それが6気筒2.8Lエンジンを搭載したセドリック スペシャルである。
50系専用設計の特別モデル
欧米の高級車にも負けないような、ショーファードリブン前提のフォーマルなセダンたるべく生み出されたセドリック スペシャルは、ベースモデルのホイールベースを205mm、全長は345mm延長。結果、全長は4855mmという堂々たる体躯だ。
形式名もベースのセドリックが30系なのに対し、このスペシャルは50系と独自の形式番号が用意された。もちろんその主たる用途は公官庁や大企業の公用車といったところ。このセドリック スペシャルのポジションが、後年デビューする日産プレジデントに引き継がれるわけだ。また、このセドリック・スペシャルがデビューした翌年、1964年に開催された東京オリンピックにおいて、聖火搬送車として使われたエピソードもよく知られるところだ。
35年の時を経て、再び元オーナーの元へ
「じつはこの個体が自分の手元にやって来たのは2度目なんですよ」
と語ってくれたのは、2025年4月6日にJR品川駅港南口ふれあい広場で開催された第26回高輪交通安全フェア 品川クラシックカーレビューイン港南に参加していた倉林高宏さん。この1965年式セドリック スペシャルが再び自分の元に戻ってきてからはまだ1年ほどとおっしゃるが、それは一体?
「かつて自分がこのクルマを所有していましたが、別のオーナーさんに譲ったんです。それが今から35年ほど前の話です。その方は10年以上かけて入念なレストアを施したのですが、高齢のためその後長い間不動車状態になってしまっていました。さらにそのオーナーさんはもう免許も返納するので、このクルマを返したい、と」
ありがたい申し出ではあったが、倉林さんはそのオーナーがどれほどの手間暇をかけてレストアを行ったかよく知っていたので、当初は「とてもその情熱に見合った金額は用意できません」と固辞し続けたと言う。
しかしそこはヒストリックカー趣味で繋がった者同士。最終的には「金額の多寡ではないから」と、前オーナーから倉林さんの元に再びセドリック スペシャルが戻ってきたと言う顛末。
もちろん長い間不動状態だったため手元に引き取った際は一通りの整備を行い、ブレーキや足まわり、エンジンの水漏れなどの不具合箇所もきっちり修理したという。それをみた前オーナーが「やっぱりあなたに戻してよかった」といったそうだから、これは素敵な物語だ。
というわけで、長い時を超えて維持し続けられている倉林さんのセドリック・スペシャルは、2.8Lエンジンの生み出す豊かなトルクで高速道路の100km/h巡航も苦にせず、今日もまた走り続けるのである。
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