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経営危機から奇跡の逆転!アストンマーチン「V8ヴァンテージ ザガート」が残した足跡【クルマ昔噺】

アストンマーチン V8ヴァンテージ ザガート

アストンマーチン V8ヴァンテージ ザガート誕生秘話

モータージャーナリストの中村孝仁氏の経験談を今に伝える連載。今回は、1980年代半ば、経営危機にあったアストンマーチンが、イタリアの名門カロッツェリア「ザガート」とDB4時代からの縁を背景に手を組み、起死回生の限定モデル「V8ヴァンテージ ザガート」についてです。このクルマが発表されたときに用意されたのは1枚のスケッチ1枚だけ。それでも生産を予定して50台で完売を果たしました。そのような伝説のクルマは、英国とイタリアの情熱が融合した希少な存在です。日本でも発表会が行われ、世界的な注目を集めたその誕生秘話を振り返ります。

どん底のアストンマーチンを救ったV8ザガート

日本市場におけるアストンマーチンの歴史は古く、1930年代から正規代理店があった。その後、1960年代には当時のコーンズが代理権を取得し、DB6などを販売した。しかし、会社の規模も日本市場の市場規模も小さかったことなどから、代理店は転々とし、1980年代半ばに当時の麻布自動車が代理権を取得して販売に乗り出した。

ちょうど麻布自動車が代理権を取得した頃、アストンマーチンはほぼどん底の状態にあった。年間生産台数がわずか150台ほどまで落ち込んでいたのだ。現在の日本国内での年間販売台数が300台ほどであることから、当時の生産台数がいかに落ち込んでいたかがわかるだろう。

どん底だったアストンマーチンは、起死回生を図るべく新たな限定生産モデルの投入を模索した。そのクルマは、計画から完成までわずか2年ほどで実現された。ベース車両はV8ヴァンテージであり、そのボディを作り上げたのは、DB4時代からつながりがあったイタリアのカロッツェリア、ザガートだった。

このクルマの誕生については後述するが、麻布自動車は、完成したばかりのこのV8ザガートを日本に持ち込んだ。お披露目は河口湖の富士急ハイランドホテルで行われ、当時のアストンマーチン・オーナーズクラブの面々が、自身の愛車に乗って駆けつけた。イベントはまるでクラブイベントのような様相を呈していた。

しかも、その会場には当時アストンマーチンのチェアマンだったヴィクター・ガントレットも来日するほど、力が入れられていた。筆者がその現場に居合わせる幸運に恵まれたのは、当時のオーナーズクラブの秘書が、筆者の飲み友達だったからである。

V8ザガート誕生の背景

V8ヴァンテージの誕生には、このような背景があった。1984年のジュネーブショーで、アストンの主要メンバーはある構想を練っていた。それは、高価なハイパフォーマンスカーを少量生産することだ。既にポルシェは959で(デビューは1986年だが開発は1981年から)、フェラーリが288GTOでそれを実現し、確実な利益を得る目途が立っていたことに目を付けた。当時のチェアマンであるガントレットと、同じくアストンマーチンに出資していたピーター・リヴァノスは、アストン同様に疲弊していたザガートにその構想を持ち込んだのである。

ザガートが経営状態の悪化に陥ったのは、それ以前にデ トマソからマセラティ「ビトゥルボ スパイダー」の製造を請け負っていたことが原因だった。年間7000台がアメリカに輸出される予定で、ザガートは大忙しだった。ところが、同じくデ トマソ傘下で仕事のなかったイノチェンティの労働組合から、ビトゥルボ・スパイダーの生産をイノチェンティに移すよう要請があった。デ トマソがその要請を受け入れた結果、今度はザガートに仕事がなくなり、危機に瀕したというわけだ。もっとも、ザガートが危機に瀕していることをガントレットやリヴァノスが知ったのは、契約を締結した後だった。

アストンがザガートを選んだ理由は、DB4時代のつながりもさることながら、当時エルコーレ・スパーダの後任としてザガートのチーフデザイナーを務めていたジュゼッペ・ミッティーノのデザインを、ガントレットがいたく気に入っていたからである。彼の作品であるアルファ ロメオ「ゼータ6」を買い求めるほどだった。

発表された1枚のスケッチで50台を完売した伝説のクルマ

ミッティーノが作り上げたボディスタイルと、アストンが後に修正を要求したスタイルには多少の齟齬があった。ミッティーノは非常にスリークで美しいデザインを仕上げたが、アストンは当初、ポーランド人エンジニアのタデク・マレックが開発したV8エンジンに燃料噴射を装備する予定だった。しかし、所期のパワーが出ず、結局キャブレター仕様にせざるを得なくなり、結果としてボンネットに大きなバルジ(膨らみ)を作ることになったのだ。

しかし、問題はそれだけだった。

本来の目標としていたCd値0.29には届かなかったものの、当時としては立派な0.32という数値で仕上がった。

1985年のジュネーブショーでの発表は、なんとスペックシートと1枚のスケッチ画だけだった。ミラノの教会を設計した画家によるスケッチだったそうだが、生産予定の50台はその年のうちに完売した。スケッチ1枚で完売という伝説を作ったのだ。結局、需要は旺盛で、アストンはさらなる追加生産を目論んだ。それはクーペではなくヴォランテ、すなわちコンバーチブルとして生まれることになった。これに関しては、既に購入を決めていた既存のオーナーから不満が出たそうだが、結局追加で37台のヴォランテが生産された。

クーペの生産台数は52台といわれている。この中には3台のプロトタイプが含まれているが、日本にやってきた真紅のV8ザガートは、そのプロトタイプの1台だった。当時としては非常に高価(9万5000ポンド)だったため、日本での販売は難しいと判断されたようだ。当時のアストンマーチン・オーナーズクラブの会長であったS氏がその場で

「買おうかな」

と言ってみたものの、結局売れ残った。現在はコレクターであるK氏のもとで、快適な余生を送っている。ちなみに、アストンマーチンの元CEOで、ポルシェ出身のウルリッヒ・ベッツがすべてのアストンを試乗した結果、「これが1番だ」とお墨付きを与えた。

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