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ダットサンを1台でも多く日本に残したい!その思いの1台がアメリカから帰国したダットサン「1500 スポーツロードスター」

ダットサン1500 スポーツロードスター:一色さん親子がエントリーしたのは、アメリカから里帰りした1964年式ダットサン1500 スポーツロードスター(SPL310)。爽やかなブルーが印象的だ

アメリカから帰ってきたダットサンSPL310と親子での挑戦

幼少期に父の運転で参加した「ミルキーウェイ・ブルーアイランド・ラリー(以下:ミルキーウェイ)」が、一色亮人さんがクルマ好きになる原点だったと言いいます。そして亮人さんはカーショップを営むようになりミルキーウェイにも参加していましたが、父親の幼なじみだった主催者の急逝を機に親子でダットサン「1500スポーツロードスター」で参加することを決意します。じつはこのクルマは逆輸入車。このクルマが日本に里帰りできたのは、アメリカ在住のダットサンファンと育んだ友人関係があったからでした。その経緯も含めて、一色さん親子が走った最後のミルキーウェイのようすを紹介します。

「国内からダットサンが1台減るのが寂しい」…友情が実現させた里帰り

爽やかな水色のダットサン1500 スポーツロードスター(SPL310)でミルキーウェイにエントリーしていたのは、一色亮人さんと一色弘章さんの親子ペアだ。このSPL310は、アメリカからの逆輸入車、つまり左ハンドル車である。

愛媛県松山市で自動車整備販売店「ロフトガレージ オートシロー」を営む亮人さんは、大のダットサン(当時の日産の輸出用名)好き。なかでも2代目ブルーバードの410型は、自らも所有する愛好家だ。

そんなある日、亮人さんはアメリカ人サムからメールを受け取った。その内容は、「オートシロー」で販売していた411ブルーバードが欲しいというものだった。

当時の亮人さんは、ダットサンへの愛情から日頃からこんな事を考えていた。

「海外に出してしまうと、国内から1台ダットサンが減ってしまう。そんな罪なことは自分はやりたくない。地元で見つかったクルマを、地元から他の地域に出すことさえ罪悪感がありました。ましてやアメリカでしょ? それは無理だな、と。しばらくは返事をしなかったんですよ。放っておけば諦めてくれるかな、と思いまして(笑)」

それでも諦めきれないサムからのアプローチは続いた。今度は輸出代行業者を通じて、売ってほしいという連絡があった。断りを入れるも、サムからは「いつか日本に行って、クルマを見にいく」というメールが届いた。

「まあ、来るのは勝手だし、冷やかし半分だろうな、くらいに考えていたんです。そしたら本当に店に来たんですよ。俺以外にも、こんなにブルーバードが好きな奴がいるんだな、と。それで『大事にしてくれるなら、国内も国外も関係ないかな』と思ったんです」

サムのダットサンへの愛情を感じた亮人さんは、410をアメリカに送り出した。念願のオーナーとなったサムも、SNSで愛車事情を発信。大事にしている様子を知ることができた。この輸出をきっかけに亮人さんとサムとの友情が育まれていくことになる。

そうしたサムとのやり取りのなかで

「日本から減った分を、向こうから里帰りさせて増やせばいいんだ!」

という考えが亮人さんのなかで生まれた。サムもそれに応えてくれ、お互いに興味のあるクルマのやり取りを行い、現在では逆に日本に里帰りさせた台数の方が、輸出したダットサンの台数を上まわっているそうだ。

親子で挑むミルキーウェイ最後の舞台

そして今回の開催がファイナルイベントとなる「ミルキーウェイ・ブルーアイランド・ラリー」(以下、ミルキーウェイ)。亮人さんがエントリーしたこのSPLも、そうして里帰りしたクルマの1台だ。父の弘章さんが

「これからはゆっくりとダットサン・ロードスターを味わおう」

と、それまで乗っていたSR2000から乗り換えたクルマだ。

このミルキーウェイは、亮人さんにとって幼少期から親しんだイベントだ。

「父のミニ・クーパーの後ろに乗って行ったことと、いろんな種類のクルマがあるなと、ぼんやりした記憶しか残っていませんが、多分この時が初めてのミルキーウェイだと思います」

そう言いながら指差した先のトランクには、1989年当時のミルキーウェイのプレートがあった。家庭を持つようになってからは、親子それぞれでエントリーしていたが、今回は最後ということで初めて親子ふたりにエントリーした。

「今回は5年ぶりのエントリーです。いつもは家族それぞれで楽しんでいましたが、今回は親子ふたりでミルキーウェイを見届けたいな、という気持ちもあったんですよ」

じつは、このミルキーウェイの事務局で、イベントを盛り上げる重要なキーマンであった“ケンちゃん”こと小林建一さんが夏に急逝した。それが大きな理由でミルキーウェイが最後となったのである。父・弘章さんとは幼なじみであり、親子それぞれがさまざまな思いを胸に秘めて参加した。

亮人さんがハンドルを握り、弘章さんがコマ図を手にルートを探る。そんなやり取りから、遠い幼少期の、クルマが好きになった原点を思い返したという亮人さん。結果も堂々の総合5位という好成績を残すことができた。

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