13歳の冬、雪の舞う日に父が乗って帰ってきた
スウェーデンのボルボが1958年に発売した「PV544」は質実剛健な大衆車としてヒットするとともに、ラリーにおいても活躍した名車です。ここで紹介する1959年式のPV544は、現オーナーの父が1963年に購入して第1回富士霧島4000kmラリーに参加するなど愛用。やがて父の逝去とともにしばらく眠っていたものの2003年に公道復帰を果たし、現在もクラシックカーラリーに参加しているといいます。そのストーリーを紹介します。
「神 5」ナンバーは神戸ではなく神奈川の略
しっかりと磨きこまれた濃紺のボディが輝きを放つクラシック・ボルボ。イエローバルブのフォグランプもその重厚感をさらに際立たせている。ラリーモディファイされ、フロントグリルには所属クラブのバッジが並び、往時のラリー出場車の佇まいを見せる。
モーガンクラブニッポンが2025年1月12日に開催したニューイヤーラリーに、愛車の1959年製ボルボ「PV544」で参加していたのは神奈川県の呉 秀男さんだ。
このPV544の存在感をいっそう際立たせているのは、「神 5」という1桁のシングルナンバー。その番号は「90-90」という呉さんの名前を当てた数字であり、指定ナンバーのない時代に運よく手に入れ、それを今日まで維持しているのは単純にすごいことである。
「この“神”というナンバーはどこですか? 神戸ですか? とよく聞かれますが神奈川の“神”なんですよ。当時はまだ神戸ナンバーもなくて、神戸市は兵庫の“兵”ですから。“90-90(クレクレ)”という番号は名前を明かすと、みなさん驚かれますね」
と呉さんは笑う。
最初は、古くさいデザインという印象だった
呉さんが物心ついた時から、父の章二さんは、とくに輸入車を好み乗っていたという。高校で教鞭をとるかたわら、CCCJ(日本クラシックカークラブ)の役員や、富士スピードウェイの競技委員を務めていたというから、クルマに対する情熱のほどが窺えるだろう。
「私が13歳のとき、1963年の暮れの雪の舞う日に、父がこのボルボに乗って帰ったんです。暖房がよく効くクルマだなと思いましたが、デザインは古臭く感じました」
当時呉家のファミリーカーはオーバルウインドウのフォルクスワーゲン「ビートル(タイプ1)」で、スタイルは洗練されたVWに軍配が上がったようだ。
ちなみに呉家に来た当時のPV544は4年落ちではあったが、年式的には決して古くない。ロングセラーモデルであったのと、ボルボの後継主力車となる「アマゾン」も併売されていたことから、呉少年にとっては旧世代の前のモデルに感じられたのだろう。
そして呉さんも大学生となり免許を取得すると、このPV544の運転をするようになった。その頃の呉さんの自宅(実家)は江ノ島近くの片瀬海岸ということもあり、堅牢で定評のあるボルボのボディも塩害の影響だろうか、乗り始めて10年で傷みが目立ち始めた。
そこで父・章二さんは1976年の秋から半年以上をかけてボディをお色直し。その後も章二さんの相棒として稼働するも、整備を依頼していた整備工場の社長が1988年に亡くなり、1991年には章二さんも他界された。
公道復帰を果たして今も積極的に楽しむ
「もちろん手放すつもりはありませんでしたが、ただ時間だけが過ぎ去りました。クラシックカーを整備する工場はありましたが、かなりの金額になるのではと思い込んでいたのもあります」
その後、ボルボを中心に整備をしている小島商会の存在を知り、2003年に車検取得、約15年ぶりにPV544は公道復帰を果たしたのだ。
そして2007年ごろから、呉さんはヒストリックカーラリーや各種展示イベントに積極的にPV544を持ち出して楽しんでいるという。
「父が乗っていた当時を知っている多くの方々から声をかけられることも多いのですが、もっと父と、このクルマのことを話しておけば良かったなと思う今日この頃です」
PV544を通じて、父・章二さんの友人や、知り合った方々から、自分の知らなかった当時のさまざまな話が聞けるのも嬉しいと語る。
ボルボのクラブの仲間たちとのツーリングや、月1回のオンラインミーティング、リバイバルカフェでのボルボミーティングといった定例イベントに加えて、こうしたラリーイベントも、これからも積極的に楽しんでいくという呉さん。
半世紀を超えた親子2代のPV544とのヒストリーはこれからも、さらに紡がれていくだろう。
>>>2023年にAMWで紹介されたクルマを1冊にまとめた「AMW car life snap 2023-2024」はこちら(外部サイト)
