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「神」ナンバーは「神戸」? 62年前に父が購入したボルボ「PV544」を21世紀に路上復帰! 2世代にわたって愛され続ける旧車のストーリーとは

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TEXT: 奥村純一(OKUMURA Junichi)  PHOTO: 沼田 亨(NUMARA Toru)/奥村純一(OKUMURA Junichi)

  • 1959年製 ボルボ PV544と、オーナーの呉 秀男さん(右)
  • 1959年製 ボルボ PV544:ダブルバンパーの形状から北米仕様ということが分かる。おそらく駐留米軍関係者が持ち込んだと思われる
  • 1959年製 ボルボ PV544:ダブルバンパーの形状から北米仕様ということが分かる。おそらく駐留米軍関係者が持ち込んだと思われる
  • 1959年製 ボルボ PV544:違和感なく装着されているのはVWビートル用のアルバートミラー。父・章二さんの好みで当時交換されたそうだ
  • 1959年製 ボルボ PV544:傷んできたので再塗装したというスチール製のオリジナルホイール。ボディ色と若干違うのは、塗装屋さんが「ボディがなくても覚えてるから色合わせするよ」と言うのでホイールのみを持ち込んだ結果という、おおらかなお話だった
  • 1959年製 ボルボ PV544:鉛バッテリーの入手が難しくなり、オプティマ製にしているが、オリジナル通り6Vのままだ。デストリビューターは123イグニッション、無接点フルトラへとポイント式から変更している
  • 1959年製 ボルボ PV544:当時、さまざまなチューニングキットを扱っていたエクセルにて、ウェーバーへの換装を父・章二さんが依頼。界隈で名の知れた“鈴木のじっちゃん”こと鈴木幸男氏によりマニホールドおよびリンケージをワンオフ製作。パワーだけでなく整備性も向上した
  • 1959年製 ボルボ PV544:ゆったりとしたフロントシートに備わる3点式シートベルトは、世界に先駆けてこの1959年モデルから採用。ボルボは特許を無償で公開し100万人以上の命を救ったとされている
  • 1959年製 ボルボ PV544:メッキが多用され、デザインにも先代PV444のデビューした1940年代の豪華な雰囲気が残るインパネ
  • 1959年製 ボルボ PV544:走行距離は恐らく2周しているということで、現在は約26万kmを走行。2004年にエンジンは一度オーバーホール。父・章二さんの時代にマイルからkm表示のメーターへと交換しているそうだ
  • 1959年製 ボルボ PV544:運転席、助手席ともに帝人ボルボ時代のマットをフロアに装着している
  • 1959年製 ボルボ PV544:リアウインドウに貼られているのは本国スウェーデンのPVクラブのステッカー。メンバーである呉さんは情報交換のみならず、日本でのPV544やアマゾンのミーティング情報などを積極的に発信しているそうだ
  • 1959年製 ボルボ PV544:1966年に行われたJAF公認の第1回富士霧島4000kmラリーでは、父・章二さんがオフィシャルとして、このPV544で参加。当時高校生の呉さんも西宮まで同行したという
  • 1959年製 ボルボ PV544:本国スウェーデンのPVクラブにも入っている呉さん。日本でのPV544やアマゾンのミーティングの情報などを積極的に発信しているそうだ。その記事が紹介された会報を持参してくれた
  • 1959年製 ボルボ PV544:1977年にボルボ50周年を記念した帝人ボルボは、主にオーナーを対象に工場ほか北欧ツアーを企画。そこで出会った若い女性と2年後に結ばれたそうで、呉さんにとってPV544は縁結びの神さまでもあるのだ
  • 成田市郊外のワインディングを走る1959年製ボルボ PV544。『モーターマガジン』誌1961年8月号、小林彰太郎氏のインプレッションでは、旧式なセダンがMG Aにほとんど匹敵するマキシマムと加速性を持つ高性能で到底信じられない事実と書かれており、父・章二さんが購入するきっかけになったそうだ
  • 親子2代にわたりボルボ PV544のステアリングを握る呉 秀男さん。優しい語り口で愛車への想いを語ってくれた
  • 1959年製 ボルボ PV544:フロントグリルには、当時麻布十番にあった「エクセル」と「RAA」のバッジが誇らしげに光る。RAAはその後FISCOクラブへと発展した

13歳の冬、雪の舞う日に父が乗って帰ってきた

スウェーデンのボルボが1958年に発売した「PV544」は質実剛健な大衆車としてヒットするとともに、ラリーにおいても活躍した名車です。ここで紹介する1959年式のPV544は、現オーナーの父が1963年に購入して第1回富士霧島4000kmラリーに参加するなど愛用。やがて父の逝去とともにしばらく眠っていたものの2003年に公道復帰を果たし、現在もクラシックカーラリーに参加しているといいます。そのストーリーを紹介します。

「神 5」ナンバーは神戸ではなく神奈川の略

しっかりと磨きこまれた濃紺のボディが輝きを放つクラシック・ボルボ。イエローバルブのフォグランプもその重厚感をさらに際立たせている。ラリーモディファイされ、フロントグリルには所属クラブのバッジが並び、往時のラリー出場車の佇まいを見せる。

モーガンクラブニッポンが2025年1月12日に開催したニューイヤーラリーに、愛車の1959年製ボルボ「PV544」で参加していたのは神奈川県の呉 秀男さんだ。

このPV544の存在感をいっそう際立たせているのは、「神 5」という1桁のシングルナンバー。その番号は「90-90」という呉さんの名前を当てた数字であり、指定ナンバーのない時代に運よく手に入れ、それを今日まで維持しているのは単純にすごいことである。

「この“神”というナンバーはどこですか? 神戸ですか? とよく聞かれますが神奈川の“神”なんですよ。当時はまだ神戸ナンバーもなくて、神戸市は兵庫の“兵”ですから。“90-90(クレクレ)”という番号は名前を明かすと、みなさん驚かれますね」

と呉さんは笑う。

最初は、古くさいデザインという印象だった

呉さんが物心ついた時から、父の章二さんは、とくに輸入車を好み乗っていたという。高校で教鞭をとるかたわら、CCCJ(日本クラシックカークラブ)の役員や、富士スピードウェイの競技委員を務めていたというから、クルマに対する情熱のほどが窺えるだろう。

「私が13歳のとき、1963年の暮れの雪の舞う日に、父がこのボルボに乗って帰ったんです。暖房がよく効くクルマだなと思いましたが、デザインは古臭く感じました」

当時呉家のファミリーカーはオーバルウインドウのフォルクスワーゲン「ビートル(タイプ1)」で、スタイルは洗練されたVWに軍配が上がったようだ。

ちなみに呉家に来た当時のPV544は4年落ちではあったが、年式的には決して古くない。ロングセラーモデルであったのと、ボルボの後継主力車となる「アマゾン」も併売されていたことから、呉少年にとっては旧世代の前のモデルに感じられたのだろう。

そして呉さんも大学生となり免許を取得すると、このPV544の運転をするようになった。その頃の呉さんの自宅(実家)は江ノ島近くの片瀬海岸ということもあり、堅牢で定評のあるボルボのボディも塩害の影響だろうか、乗り始めて10年で傷みが目立ち始めた。

そこで父・章二さんは1976年の秋から半年以上をかけてボディをお色直し。その後も章二さんの相棒として稼働するも、整備を依頼していた整備工場の社長が1988年に亡くなり、1991年には章二さんも他界された。

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