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夢はR34とR35の「GT-R」2台持ち生活! 隠れGT-RファンだったGT500ドライバー平手晃平選手の愛車遍歴

GT-Rのことを嬉しそうに語る平手晃平選手

かつてF1を目指したドライバーが日産系GT500チームへの移籍で固く決意したこと

 トヨタの育成プログラムによってF1ドライバーを目指し渡欧。帰国後はトヨタチームで2度のGT500クラス王者を獲得する。2019年の日産勢への加入は、GT-Rファンにとってまさに驚き以外の何物でもなかった。しかし、本人にとっては人生の夢を一つ叶えた瞬間。かつてR34を目にした日からGT-Rへの情熱を抱き続けていたのである。

(初出:GT-R Magazine 157号)

高校2年生のとき単身イタリアに渡る

 2019年2月9日13時、平手晃平選手の姿は神奈川県横浜市にあった。「日産自動車」本社ギャラリーで行われた「2019モータースポーツ活動計画発表会」のバックステージで昂ぶる気持ちを抑えきれずにいた。早く日産ドライバーとして表舞台に立ちたい。

 ステージでは日産のエースである23号車が紹介されている。次だ! 平手選手が乗る3号車の体制がスクリーンに映し出されると、詰めかけたファンからどよめきが起こった。一瞬だけ「ステージに上った瞬間に空き缶とか投げられたらどうしよう」と不安が頭を過ぎったが、すぐにかき消された。会場の外まで溢れかえるファンから温かい声援で迎えられ、ここに「日産ドライバー・平手晃平」が誕生したのである。

 小学生のころからレーシングカートを始め、高校2年生の時にF1ドライバーを夢見てトヨタ・ヤングドライバーズ・プログラムの支援を受け渡欧した。

「カートを始めたときからレーシングドライバーになりたいとは思っていましたが、自分の家でやれるほどの財力はない。トヨタのオーディションに受かったらその道が開けると考えたんです。そして合格したので本気でやろう。学業はもういいいや、と高校2年の冬休み明けにヨーロッパ行きが決定しました」

 16歳で単身イタリアへ。下見のときは関係者も一緒だったが、3月に本格的に出発するときは本当に一人。英語はもちろんイタリア語なんてまったく話せない。

「まさか英語が必要になると思っていなかったのでほとんど勉強しておらず焦りましたね。とりあえず教科書のニューホライズンをカバンに入れて出発しました。初歩的な英語さえわかれば何とかなるだろうと思っていたんです」

市販車に興味がなかった少年に強烈な印象を与えたR34

 若さに勝るものはない。この度胸と頭の柔らかさによって2年目からは生活に困ることもなかったそうだ。ヨーロッパではフォーミュラルノーに始まりユーロF3やGP2へ参戦した。そんな平手選手だが、幼少期からクルマ好きというわけではなかったと言う。

「レーシングカートをやっていましたし、父はバイクとクルマが大好きですが、自分は市販車にはあまり興味がなかったんです。でも、中学3年のころたまたまコンビニで立ち読みしていた雑誌で目に飛び込んで来たのがR34型のスカイラインGT-Rでした。はっきりは覚えていないのですが、たぶん“マインズ”のデモカーだったと思います。強烈なインパクトを受けました。初めて好きになったクルマがR34なんです。免許を取ったら乗りたいと思いましたよ」

 海外修行中に18歳になり、休暇で帰国中に短期間で教習所に通い詰め免許を取得。とはいえ、当時はヨーロッパに住んでいたこともあり、すぐに愛車を手にすることはなかった。

 帰国後、23歳にして初めて手に入れた愛車は6速MTのトヨタ・アルテッツァ。R34も当然頭を過ぎったが、当時はトヨタ契約ドライバーということもあり断念している。

「まだ20代前半ですから、アルテッツァを所有しながら、陰でR34に乗るなんてことは無理でしたね」

 帰国した2008年はチーム・インパルからフォーミュラ・ニッポン(現スーパーフォーミュラ)に参戦。またスーパーGTもGT300クラスで戦った。ちなみに、初めて平手選手がR35GT-Rをドライブしたのもこの年だという。とある企画で宮城県の「スポーツランドSUGO」に国内外のスーパーカーが集結。「好きなクルマに乗っていい」と言われ、迷わずR35に駆け寄った。「すごい!」「速い!」という言葉しかなかった。参戦1年目で両カテゴリーとも優勝を経験。その能力の高さが評価されるのは当然のこと。翌2009年にはGT500クラスへのステップアップが決まったのである。

GT500への昇格記念にR32購入! 日産移籍でR35を手にした理由

 2009年にGT500に乗ることが決まったことで、平手選手は記念として一つの大きな買い物を決断した。「GT-Rを購入する」。しかも、ずっと憧れ続けていたR34ではなくR32である。

「父がずっとR32が好きだというのは前々から知っていました。ヨーロッパでレースをやっていたころ、たまに家に戻るといつも父は“GT-R Magazine”を読んでいたんです。それが帰国するたびに本が増えていく。そこでGT500に昇格が決まった年に『R32欲しいんでしょ? 買いに行こうか』と父に伝えました」

 平手選手がレーシングカートを始めると、ランチアやセリカGT‒FOURなどを乗り継いできたクルマ大好きの父親が、一切趣味のクルマを止めてカート運搬のためにハイエースを購入。夢を追う息子に精一杯投資して応援してくれた。だから、何かの記念に父親に恩返しがしたいと思っていたそうだ。

「本人はあまり感情を出さないけれど、母親に聞くと、毎日洗車してボディが擦り切れるくらい磨いているよと、かなり喜んでくれたみたいです」

 購入したのは「NISMO」のファインスペックエンジンを搭載した600㎰超のチューンドカーだった。室内にはロールバーも組まれていたという。

「父が見つけてきて一緒に買いに行きました。今は500㎰程度に抑えていますが、それでもじゃじゃ馬といった雰囲気ですね」と話す平手選手は、現在でも地元に帰れば必ずエンジンを掛け、R32を走らせているそうだ。

「購入当時はトヨタドライバーですから、おおっぴらにGT-Rは乗れない。父が乗っていていつかは自分のところに来るかな、という考えもあったんです」

 購入から10年以上。お父さまは今でもGT-Rを大切にしてくれている。だからきっと2019年に息子が日産ドライバーになったことも自分のことのように喜んでくれたに違いない。

プロドライバーは子供に夢を与えなければならない

 平手選手は日産に移籍したらGT-Rに乗ろうと決めていた。

「GT500ドライバーはそのときレースに出ている現役のクルマ、もしくはフラッグシップに乗るべきだと思っています。そうすることで子供たちや若者に夢を与えられると思っているんです」

 これはトヨタ時代からの平手選手の信念だ。本来ならばR34に乗りたいとも思ったが、まずはR35だと決めた。R35にも大いに興味があり、たまたまいい縁に出会えた。2019年5月には現在の愛車、MY08(2008年モデル)のR35GT-Rを手にしていたという。

「でも、しばらくは伏せていました。レースで結果を出してから『じつはR35持ってます』と発表したかったんです。日産に移籍したからって調子いいよなと思われたくなくて。本当にGT-Rが好きなので誤解されたくなかったんです」

 移籍した2019年は日産勢にとって厳しいシーズンとなった。年間シリーズの8戦中、日産はたった1勝しかできなかったのだ。その唯一の勝利をもたらしたのが平手選手の駆る3号車だった。これでR35をファンにお披露目できたのだろうか?

「それが、SUGOの優勝より少し前にSNSで公表しちゃったんです。もう我慢できなくて。GT-Rに乗っているんだと自慢したいじゃないですか。だからそれまでもドライブに出掛けるとチラッと後ろにR35が写っている写真を投稿したり、匂わせたりもしていました」

 ずっと憧れていたGT-Rでレースを戦い、日常でもオーナーになれた。その喜びを表現したくなるのは当然だ。平手選手はレースウイークのサーキットへの移動はGT-Rと決めている。普段の足としても大いに走る。子供たちの保育園の送り迎えにも使っているそうだ。

いつかはR34とR35の2台をガレージに並べて眺めたい! 

 日産1年目にしてGT500で勝利。

「SUGOは自信がありました。速さはあるとわかっていましたし。しかし予選日はチームメイトのフレデリック・マコヴィッキ選手がイマイチ乗れていなくて、まさかのQ1落ち。それでも決勝日は天候も荒れそうだし、上手くいけば表彰台には行けるだろう、と。まさか優勝できるとは思っていませんでしたけどね」

 決勝では前日の鬱憤を晴らすかのように神掛かった走りを見せるマコヴィッキ選手。あと数周でGT-Rで勝てると確信できたとき、平手選手はあらゆる喜びの感情を抑えることができなかった。

「2年前トヨタでGT500に乗れなくなり、日産が拾ってくれて、やっと期待に応えられる。しかもGT-Rで勝てる」

 この第7戦SUGOは生涯忘れられないレースだと平手選手は語る。レース後真っ先にNISMOの片桐隆夫CEOや松村基宏COO、そして田中利和監督に感謝を伝えた。松田次生選手やロニー・クインタレッリ選手が平手選手のもとに駆け付けてくれたのもうれしかったという。

 こうして結果を出したことで、大手を振って愛車のMY08に乗ることができるようになった。2020年に入るとレーススケジュールが変更され、前半は余裕ができた。そうなると愛車に手を加えたいという欲求がムクムクと沸き起こる。

「自分でできることを少しずつやっています。エンジンカバーを塗装したり、リヤバンパーも外してUSマーカーを取り付けたり。ボトムの赤いラインは娘と一緒に自作で貼ったものなんです」

 自分でイジるのが好きだと話す平手選手。しかしR35をガッツリとチューニングすることはない。

「自分の夢はまず23号車に乗ること。そしてGT-RでGT500チャンピオンになることです。実現したら記念に今度こそ大好きなR34を買いたいと思います。中古車の価格が高騰していますが、きっといい出会いがあると思っているんです。だからR34資金を貯めなくては」

 平手選手と言えば、印象的なのが日産加入前の2018年「NISMOフェスティバル」。今考えてみれば翌日に会場の富士スピードウェイでは日産系GTチームのオーディションがあったのだが、その会場で平手選手は目を輝かせながらGT-R Magazineブースに展示していたスタッフカーのR34GT-R V-spec II Nurを食い入るように見ていたのだ。当時は「トヨタの平手がなぜ?」と話題になったものだ。

「覚えていますよ。あの日は会場中のR34に食い付いていました。と言ってもNISMOフェスティバルは初めてじゃないんです。2008~2011年は当時フォーミュラ・ニッポンで乗っていたチーム・インパルの手伝いを言い訳に毎年行きました。その後もプライベートで足を運んでいます」

 中学生のころから憧れ続けるR34のためにも、2021年は正念場だ。

「昨年は確かに苦しいシーズンだったと思います。しかし、最終戦の付近でGT-Rがいいパフォーマンスを見せるようになりました。シーズンオフの間にベースアップできればしっかり戦えると思います。千代勝正選手と組むのは初めてだったので、コミュニケーション不足もあったと思います。そういった面でも2021年はどんどんよくなると思います」

 いつかはレーシングドライバーという職業から引退するときが来る。それでも平手選手はGT-Rに乗り続けると話す。

「一軒家を建ててガレージにはR34とR35の2台のGT-Rを並べることを想像してニヤニヤしています。GT-R Magazineを読んで、自分と同じことを考えている人はいっぱいいるんだと感じているんですよ。GT-R好きの方が喜ぶのはGT-Rがレースで勝つことだと思っています。だから夢を叶えるためにも2021年は結果を出したいです」

 R34に魅せられた14歳の少年は、今もそのままの心で夢を追い続けている。

(この記事は2021年2月1日発売のGT-R Magazine 157号に掲載した記事を元に再編集しています)

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