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タトラとシュコダを堪能する「チェコが生み出した傑作と悲しき運命」

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TEXT: 原田 了(HARADA Ryo)  PHOTO: 原田 了

  • ハンス・レドヴィンカ、タトラ、シュコダ

リアに空冷エンジンを搭載した
「ハンス・レドヴィンカ」によるタトラ

前回は、チェコの自動車メーカータトラの「創業期から第一次世界大戦前後にかけての歴史」とエポックメイキングなモデルを紹介した。
“タトラとシュコダ(現在はVWグループの傘下の自動車メーカー)を堪能する”シリーズの2回目は、典型的なタトラ=リアに空冷の水平対向エンジンを搭載し、空気抵抗を低減した…結果的には甲虫のようなルックスとなったモデルを取り上げることにしよう。

典型的なタトラ、と一括りにしたが、戦前のモデルと戦後のモデルに大別できる。技術的に磨かれ鍛えられていった進化論とは別次元の話になるが、様々なクラスにむけて展開した戦前に対し、戦後はチェコの国営企業となったことで活動分野を中大型乗用車に制限されたことが最大の相違点となった。

そこで今回は先ず、戦前の、おおらかだった時代。タトラが自らの意思でクルマを開発していた時代の、魅力的だったクルマたちを振り返ろう。
因みに、開発を統括したのはタトラの主任技術者だった「ハンス・レドヴィンカ」。彼の薫陶を受けたエーリヒ・ユーベルラッカーも若手の有能なエンジニアとしてその手腕を発揮した。

1929年の世界大恐慌でニューヨーク株式市場が大暴落。人々が経済的な、つまり小型で安価なクルマを求めるようになると見越したタトラでは小型乗用車の開発が急がれることになった。これには2案あって、”T12″シリーズの後継として進化させたモデルと、ドラスティックにコンセプトを一新したモデル、が並行して開発されることになる。

もっとも、前者のプロジェクトが1931年に”T57″として結実したことで、後者は棚上げ状態にされる危機に瀕するが、技術部門を統括したハンス・レドヴィンカらは、このコンパクトカーの“理想像”を具現化すべく開発を粛々と進め、2年後の1932年にプロトタイプのV570を完成。
各方面から注目を集めた「パウル・ヤーライ」が提唱した流線型ボディを実現するためにフロントノーズを丸く絞りヘッドライトを埋め込んだシルエットは、後にフェルディナント・ポルシェが設計するKdFワーゲン(後のフォルクスワーゲン・ビートル)と非常によく似ていた。しかも、空冷の水平対向2気筒エンジンをリアに搭載していたのだ。
このことによって「ポルシェがレドヴィンカのアイデアを真似た!」と後世まで喧しい世論を導くことになるのだが、当時の歴史背景や技術レベルを考えるなら、クルマをより軽量コンパクトに、そして生産コストを引き下げるという命題に対して、自動車技術者ならだれでも辿り着く当然の帰結。目を三角にすることもなかったと思う。

 

Tatra V570(1933)ハンス・レドヴィンカ、タトラ、シュコダレドヴィンカ率いるタトラの技術陣が、信念を持って開発した新世代モデルが「タトラV570」。フロントビューはまさにビートルと瓜二つ。広角レンズを使った関係でリアビューではテールが長く感じられるが実際にはコンパクト。ハンス・レドヴィンカ、タトラ、シュコダ一方、会社の経営陣は、T12シリーズの後継車としてコンサバなT57(下写真)を選んだ。実際に販売実績も好調で経営者の判断としてT57を優先したことは決して間違いではなかった。ただそのためにリア・エンジン車両を大型車で展開しようとしたことで、リア・エンジン・プロジェクトのその後の運命を方向づけることになった。ハンス・レドヴィンカ、タトラ、シュコダ
V570はコプジブニツェのタトラ技術博物館で、T57はブラスチラバ交通博物館で、ともに今年の6月に撮影。

 

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