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消滅した伝説のサーキット!ホンダ創立者・本田宗一郎などのレース逸話を解き明かす

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TEXT: 原田 了(HARADA Ryo)  PHOTO: 原田了、東急株式会社、本田技研工業、日産自動車、Auto Messe Web

日本のレース界の栄枯盛衰とともにあったサーキット

 日本の各地には、今はもうレースが開催されずにコースの名残りだけとなっている場所、あるいは常設されていたコースの面影すら残らないレースコース、サーキットが点在しています。しかし、そこで繰り広げられたモータースポーツの歴史には、日本の自動車業界を今に至らしめる要因が少なからず見受けられます。そこで伝説のサーキットやそこにまつわる逸話を振り返ってみましょう。

 

多摩川の河川敷にあったオリンピア・スピードウェイ

 日本で最初に自動車レースが行なわれたのは1914年(大正3年)のことでした。東京は目黒にあった競馬場が舞台となりました。その後も埋立地などの特設コースを使って自動車レースが行なわれたようですが、昭和に入ると常設コースが誕生しました。それが東京都と神奈川県の間に流れる多摩川の河川敷で、野球場の跡地にオープンしたオリンピア・スピードウェイ(多摩川レースウェイ)でした。

 コースは全長1.2kmのオーバルで、現在の東急東横線の橋のすぐ上流、多摩川の川崎市側(中原区)の河原に整備され、今も土手には観客席のスタンドが残されていて、当時の雰囲気を伝えています。

 1936年(昭和11年)の5月に完成し、6月に第1回多摩川自動車競走大会が開催され、外国車が大勢を占める中、オオタやダットサン等の国産車も健闘しました。

 今に語り継がれている大きなエピソードとしては、フォードを改造した車両で出走した、Hondaの創立者・本田宗一郎/弁二郎兄弟のアクシデントがありました。クルマから投げ出されたものの、2人が九死に一生を得たのは幸いでした。後にHondaを立ち上げる宗一郎さんが、ここで一命を落としていたら、今のHondaや鈴鹿サーキットはなく、まさに歴史の変換点となったかもしれない出来事でした。

 2輪による当時のレースシーンの希少な写真は東急株式会社提供。

 

世界の高橋国光も輩出した浅間火山サーキット

 戦後、数多くのバイク・メーカーが製品の性能向上を目指して作られたサーキットが、群馬県の浅間山麓の牧草地に整備された浅間火山サーキットです。

 1956年(昭和31年)に国内19のオートバイメーカーによって浅間高原自動車テストコース協会が設立され、通産省とともに建設費用を負担、群馬県と嬬恋村から土地を借りて建設が進められました。同時に浅間火山レースも計画されましたが、コースの建設に時間がかかり、第1回目のレースは北軽井沢の公道を閉鎖して行なわれました。

 1957年(昭和32年)の7月にはサーキットが完成し、10月には第2回目の浅間火山レースが、新コースを使って開催されました。浅間火山レースにはオートバイメーカーのワークスライダーだけが参加していましたが、翌1958年にはアマチュアのための全日本モーターサイクルクラブマンレースが開催されています。

 このレースで注目を集めたのが高橋国光さん(現・S-GTに参戦するチームクニミツ総監督)でした。後にHondaのワークスライダーとして2輪の世界グランプリに参戦し、西ドイツGPでは日本人として初優勝を飾るなど、我が国を代表するトップライダーの高橋さんです。しかし、当時はまだ18歳で、父親に買ってもらったバイクでローカルイベントに出走、その走りを認められ抜擢されての出場でした。

 期待に応えて高橋さんは、350cc以下のジュニアクラスながら500cc以下のセニアクラスの全参加者を抜き去る驚異的な走りを見せ優勝。ここからライダーとして、そしてレーシングドライバーとして栄光の歴史を歩んでいくことになったのです。

 廃止された浅間火山サーキットですが、現在は当時のコースの一部を使用してダートトライアルなどが開催されています。写真は、イベントが開催される前日、コース設定の合間を縫って撮影させていただきました。

 

伝説の浮谷東次郎が激走した船橋サーキット

 1962年に鈴鹿サーキットが竣工し、同年の10月に2輪のロードレース、翌1963年の5月に第1回日本グランプリが開催されたことが近代の国内モータースポーツにおける夜明けとされています。1965年には千葉県に船橋サーキット、1966年には静岡県の富士スピードウェイが完成し、モータースポーツはメジャースポーツへと発展して行きました。

 しかし、観客動員が伸びずに経営が悪化したことを受けて1967年には船橋サーキットが廃止されることになります。その後かたちを変え、船橋オートレース場として存続しましたが、こちらも2016年に廃止の発表がなされ、今は新しい施設の建設が進められています。

 

 その船橋サーキットにおける伝説的なレースが、1965年の7月に開催された全日本自動車クラブ選手権レース、CCCレースと呼ばれ、語り継がれることになった大会でした。ドラマの主人公は浮谷東次郎さんと生沢徹さん。ともに親友でありライバルでしたが浮谷さんはトヨタの、生沢さんはプリンスの契約ドライバーとして戦うことになりました。

 GTⅠレースに浮谷さんはトヨタ・スポーツ800で、生沢さんはプライベートで所有していたホンダS600で参戦することになったのですが、レース序盤に他車と接触するアクシデントでピットインした浮谷さんが、ピットアウト後は小雨が降りしきる中、猛追に次ぐ猛追。

 最終的に生沢さんをもパスしてトップでチェッカーを受けることになりました。将来が期待された浮谷選手ですが、鈴鹿サーキットで練習中にクラッシュし、亡くなってしまいました。一方、生沢選手はその後、ワークスとしてだけでなくプライベートでも活躍。トップドライバーとなって様々なレースで活躍したのは、多くのファンから知られているところです。
※船橋サーキットのイメージ

 

危険すぎて廃止された富士スピードウェイの30度バンク

 1966年にオープンした静岡県の富士スピードウェイは約1.6kmと長いストレートの先にバンク角30度で高速の下りコーナーが続く、個性的なレイアウトが大きな特徴でした。ドライビングはもちろん、クルマのセッティングも特殊で、国内メーカーのワークスチームだけでなく、海外から来襲したトップチームをも苦しめることになりました。

 1960年代後半の日本グランプリを筆頭に、30度バンクで繰り広げられたドラマは数え切れないほどありますが、結果的に30度バンクを使ったラストレースとなった1973年の富士GCは印象に残るひとつでしょう。TBS系列で初めて全国的に放映されたレースで、当時、地方に住んでいた高校生の著者にとっては、初めてテレビで、しかもライブで見たレースでした。

 残念ながらドライバーが死亡するアクシデントが発生し、翌年にもアクシデントが起き、結果的に30度バンクは以後のレースでは使用されなくなりました。

 しかし、平成の大改修に際して富士スピードウェイは、この旧30度バンクをモータースポーツの歴史的遺産として保存することを決断。1コーナーの先に、今でもその一部が保存されています。

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  • 原田 了(HARADA Ryo)
  • 原田 了(HARADA Ryo)
  • ライター。現在の愛車は、SUBARU R1、Honda GB250 クラブマン、Honda Lead 125。クルマに関わる、ありとあらゆることの探訪が趣味。1955年、岡山県倉敷市生まれ。モータースポーツ専門誌の地方通信員として高校時代にレース取材を開始。大学卒業後、就職して同誌の編集部に配属。10年間のサラリーマン生活を経て90年4月からフリーランスに。モータースポーツ関連の執筆に加え、オートキャンプからヒストリックカーイベントまで幅広く取材。現在ではAMWに、主にヒストリー関連コラムを執筆。またライフワークとなった世界中の自動車博物館歴訪を続け、様々な媒体に紹介記事を寄稿している。
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