レースによって磨かれてきた童夢の技術
1960年台後半、日本国内にも数多くのレーシングカーコンスト ラクターが誕生しています。そのうちの数社は、現在でもレーシングカーやミニ・フォー ミュラなどの製作を続けています。レーシングカーではなくロードゴーイングのスポ ーツカーを手掛けようと誕生した童夢は、スーパーカーを完成させて注目を浴びていま した。
童夢と言えば、多くの人がイメージするのは緒作の零かもしれませんが、より完 成度が高く、結果的に評価も高かった1台がジオット・キャスピタでした。今回は、モ ダンなスーパースポーツカー、F1 on the Roadを地を行くとも形容され、エンジンを乗せ換えながら2台 が製作されたジオット・キャスピタを振り返ります。
初号機とその課題に対処した2号機
童夢を創設した林みのるさんは、1960年代半ばから1970年代初めに かけて数々のレーシングカーを生み出してきていました。そして1975年には「スポーツカ ー・メーカーを目指して」童夢を立ち上げています。その童夢の最初の作品となったのが 、1978年のジュネーブショーでお披露目された童夢-零でした。
ちょうど世間は“スー パーカー”のブームが巻き起こっていて、国産初のスーパーカーと持て囃されることに なりました。ロードゴーイングカーとしての型式認定を目指していた童夢では、担当官 庁である運輸省(現・国土交通省)の対応に困難だと感じていました。
次なる策として米国で の型式認定を目指し童夢P-2を開発しますが、形式認定と並行する形で玩具メーカ ーなどから童夢-零をキャラクターとした玩具や文具メーカーからの契約が舞い込みます。これにより、童夢 には莫大な契約料がもたらされることになりました。
こうなると、もともとがそういう ことを嗜好していた童夢だけに、レーシングカーづくりに食指が動きます。しかも、玩 具や文具メーカーからは“第2の童夢-零”が要求され、これに応える恰好で純レーシングマ シンの製作が始まりました。これが童夢-零RL・フォードでした。
それから10年近くが経った1980年代終盤、童夢は新たなスポーツ カーづくりを始めることになりました。それが今回紹介するジオット・キャスピタです。 ジオットというのは衣料品メーカーとして知られたワコールが設立したスポーツカーを 生産するメーカーで、開発を担当するジオット・デザインは童夢が設立。
エンジンは富 士重工業(現SUBARU)が供給するという、3社のジョイントベンチャーがスタートしています 。こう書くと、童夢が単独でクルマづくりにチャレンジした零のときに比べると、随分恵 まれた体制のようにも思えますが、実際には課題も少なくなかったようです。
最大の課 題はエンジンでした。当初は、富士重工業がモトーリ・モデルニ(以下MM)にF1マ シン用のエンジン開発を依頼しており、そのF1仕様(をロードユース用にチューンし直し た)エンジンが供給されることになっていました。ですが、MMで開発された180度V型1 2気筒エンジンは大きく重く、コローニに搭載されて1991年シーズンのF1GPにエントリー。
富士重工業が出資してチームは共同運営となり、チーム名称もスバル・コローニ・レーシングと して活動していたものの、開幕から8戦続けて予備予選落ち。第8戦のイギリス GPを限りに富士重工業はチーム運営から手を引くことになりました。
さらに富士重工はジ オット・キャスピタのプロジェクトからも撤退。ジオット側(=童夢とワコール)では 新たなエンジンを探し、イギリスのエンジンコンストラクター、ジャッド製のV10エ ンジンを搭載した2号車を製作することになりました。
林さんの構想ではF1エンジンを搭 載したジオット・キャスピタをベースにグループCカーへと発展させるイメージもあった ようです。しかし、空力が優先されるグループC(やF1GPマシン)では、そもそもフラッ ト12ではハンディがあり、例え軽量コンパクトに仕上がっていたとしても、苦戦は余儀なく されていたと推察できます。
それにしても初号機とその課題に対処した2号機と、これ をベースにしたレーシングスポーツ。これは童夢-零と童夢P-2、そして童夢-零R L・フォードの立ち位置と似ていることには驚かされます。