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ダイハツにフェラーリに似たクルマがあった! ポルシェと戦った「P−5」というレーシングカーとは

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TEXT: 御堀直嗣(Mihori Naotsugu)  PHOTO: ダイハツ/Auto Messe Web編集部

1968年の第5回日本グランプリのGP-1クラスで優勝

 ダイハツは、明治40年(1907年)創業の歴史ある会社だ。社名は、発動機製造株式会社といい、これが1951年に、大阪にある発動機会社ということから、ダイハツ(大発)となった。1965年には、電気自動車(EV)の開発にも着手している。

 第二次世界大戦前後、ダイハツはオート3輪という貨物車で知られる存在だった。そして1957年に発売したミゼットは、軽自動車枠のオート3輪として中小や零細企業の人々に愛用され、大村 崑(コメディアン)を起用した宣伝も、テレビが普及しはじめた当時、有名だった。

 初の4輪乗用車が、1964年のコンパーノ・ベルリーナ800である。その前に、商用のコンパーノ・バンがあり、その外観は、イタリアの造形によった。そこから乗用のコンパーノ・ベルリーナが誕生した。翌1965年には、オープンカーのコンパーノ・スパイダーも登場させている。

 コンパーノのセダンであるベルリーナを基に、ガラス繊維を用いた樹脂で流麗な外装を施したのが、ダイハツ初のプロトタイプレーシングカーであるP-3だ。これが、鈴鹿サーキットから富士スピードウェイへ開催場所を変えた1966年の第3回日本グランプリに参戦した。前1965年には、市販車をレース仕立てにしたベルリーナが、鈴鹿の雨のレースでGT1クラスの優勝を果たしている。そして日本グランプリでのP-3は、総合7位、GP1クラスで優勝を飾った。

 P-3の後継となるのがP-5だ。P-4という名のレース車は存在しない。P-3がベルリーナを基にしたのに対し、P5は鋼管スペースフレームから組み上げた本格的ミッドシップのレース専用車両で、ガソリンエンジンはP3から若干排気量を増した1298ccの直列4気筒だった、最高出力は145psで、最高速度は250km/hに達した。しかし準備不足により、1967年の第4回日本グランプリでは予選を通過できずに終わる。

 1968年の第5回日本グランプリで、総合10位、GP1クラスの優勝を手にし、前年の雪辱を晴らした。この年には、鈴鹿1000kmという耐久レースにも参戦し、トヨタ7やポルシェ906に次ぐ総合3位の成績も残している。

風洞実験の設備はトヨタ7の開発に活用

 1967年に、ダイハツはトヨタと業務提携した。提携による最初の成果は、1969年のコンソルテという新たな小型車で結実し、これはパブリカの兄弟車だった。これにより、ダイハツ独自のベルリーナという小型乗用車は終わりとなる。同時にまた、ダイハツ独自に開発したレース専用車P5の活躍も1968年が最後となった。

 P−5の流麗な外観は、ダイハツの風洞実験から導き出されたとされ、風洞実験の設備はトヨタ7の開発に活用されたという。

 ダイハツは、軽自動車を中心とした小さなクルマのメーカーとしていまは知られるが、50年以上前は独自にレース活動を行う一社であった。トヨタと提携後の1977年には、独自開発のシャレードを販売し、高い人気を得た。シャレードは、直列3気筒エンジンを搭載し、現在の軽自動車や小型車で当たり前に採用される3気筒エンジンの先駆的存在でもあった。1982年には、アフリカのサファリラリーに参戦し、全車完走、クラス優勝を果たしている。

 シャレードの2代目では、初代で構想されたデトマソと名付けた高性能車種も販売され、ダイハツが秘めてきた走りへの思いや、技術に対する探究心を感じさせた。そして今日、コペンという軽スポーツカーを存続するのも、独自開発のPシリーズでレースを戦った当時の熱い思いが伝統としてなお残されているからではないか。

 消費者がダイハツに魅了されるひとつは、単に良品廉価を追求するだけでない企業風土もあるのだと思う。

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