作ったトヨタはエライ! 改めて見ると偉大すぎる「初代クラウン」の衝撃 (3/3ページ)

国内のみならず北米にも進出

 クラウンの発売をきっかけに、トヨタの市場占有率は上向きとなり、売り出し前の54年に23.5%であったのが翌年には35.2%へ1.5倍近く拡大した。年間の乗用車生産台数も、50年の468台から、55年には7403台、そして57年には1万9885台へ大きく伸びた。

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 そして早くも、米国市場への進出が模索されたのである。57年に調査を開始し、米国本土への輸入業務や、州ごとに異なる型式認定の仕方、販売店の設置などを進め、翌年58年に輸出を開始した。初代クラウンを振り返る画像はこちら

 しかし、国内に技術本館(テクニカルセンター)が出来上がったのは54年のことで、併設される全長2km、時速100kmで走行できる走行試験路(テストコース)の完成は56年であった。このため、フリーウェイを視野に入れた米国での高速走行に対する性能はもちろんのこと、耐久性についても十分な準備ができていたわけではない。ちなみに、日本にはじめて高速道路ができるのは、63年の名神高速道路である。

 初代トヨペット・クラウンの最高速度は、時速100kmであった。しかし、高速で走り続けることは想定されていなかっただろう。米国で高速走行を続けると、突如エンジン騒音が大きくなり、出力が低下する症状が出た。オーバーヒートが原因だった。初代クラウンを振り返る画像はこちら

 ほかにも、高速走行安定性の不足、激しい騒音と異常な振動の発生や、変形による部品の破損なども起きた。それらは随時改良がほどこされた。エンジンはより出力を高めた仕様が開発され、同時にテストコースには、57年に旋回試験用のスキッドパッドや、石畳路面(ベルジャンロード)、59年には特殊波状路、捩じり路、急坂路などが追加されることによって、走行安定性や乗り心地も改善されていくことになる。

 発売から7年の歳月を経て、クラウンは1962年(昭和37年)に2代目へ引き継がれるが、初代クラウンで、トヨタは乗用車づくりに多くの知見を得たはずである。