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「栄光のル・マン」への飽くなき挑戦! 意余って力足らずの「伝説になり損ねたGT-R」2選

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TEXT: 酒呑童子  PHOTO: GT-Rマガジン編集部

優勝狙いと完走狙いで「結果」は残したが……

 ともあれ、1995年の第63回ル・マン24時間レースに2台のR33GT-Rは挑戦した。エースナンバーを付けるクラリオン・カラーの23号車は、星野一義、鈴木利男、影山正彦がドライブ。日産伝統のトリコロールカラーの22号車には、福山英朗、粕谷俊二、近藤真彦が乗っている。

 エースカーの23号車には、600psのエンジンとXトラックの6速シーケンシャルミッションを搭載。もう一方の22号車には、完走狙いの耐久性重視でN1仕様のエンジンとHパターンの日産製5速ミッションを採用した。

 レースでは23号車が一時は5位まで浮上したが、ミッションにトラブルが発生。スタートから18時間でリタイヤした。一方、22号車は予定通り淡々と走り、最終的に総合10位・クラス5位でチェッカーを受けた。チェッカーを受けたドライバーは近藤。ゴールの瞬間、車内でガッツポーズを取る近藤選手の姿はテレビでも放映され話題となった。

 翌1996年のル・マンに向けてGT-R LMは進化する。エンジンは2.8Lに排気量を拡大。ドライサンプ仕様に変更されエンジン搭載位置も下げた。しかし、GT1クラスのライバルたちは、それ以上に進化を遂げており、結果は、23号車の総合15位・クラス10位が精いっぱいの状態だった。もはや、市販車ベースのスチールモノコック製のハコ車では勝負権は完全になくなっていた。当時のニスモスタッフの「ライバルはピット前のホームストレートを通過する際に、コンクリートウォールでマシンは見えず音だけが目の前を通過する。でもGT-Rはルーフもバッチリ見えちゃうんだよね」という言葉がすべてを語っていた。

 結局、当初は3カ年計画だったスカイラインGT-Rのル・マン挑戦を諦め、次年度以降はR390 GT1というカーボンモノコックシャーシを持つマシンで参戦することになった。

20年後に再挑戦した“GT-R”はもはや黒歴史

 1995年のスカイラインGT-Rのル・マン初挑戦から20年後の2015年。日産は再び「NISSAN GT-R LM NISMO」というGT-Rの名を持つマシンでル・マンに帰ってきた。

 このマシンは、GT-Rの名を持つが、LMP1-Hybridクラスに参戦するために北米主導で開発した完全なプロトタイプレーシングカーだった。

 その内容はかなり異色で、一般的にプロトタイプレーシングカーはミッドシップレイアウトで後輪を駆動するのが常識だが、なんと前輪駆動(FF)だった。エンジンもフロント部に搭載するため、異様にフロントノーズが長い。当時、日産は規則上、空力性能はFFにしたほうが有利だとし、革新的なレースカーであると胸を張っていた。

 なぜFF車にGT-Rの名を与えたのか、当時も否定的な意見が多かった。案の定、レースでは惨憺たる結果となり、テレビ解説者の辛辣なコメントも印象的だった。

 これを「GT-Rとル・マン24時間レース」の歴史の一部とするか。当事者の日産は「黒い歴史」として封印したいところだろうが、同じ過ちを犯さないためにも後世に事実を伝えるべきだろう。

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