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「日本一速い男」が激白! 「ホシノインパル」の誕生と苦境からの逆転劇

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TEXT: 平塚直樹(HIRATSUKA Naoki)  PHOTO: 平塚直樹、HOSHINO IMPUL,青島文化教材社,

40周年のインパル、最初はホイールから始まった

 インパルは、日産ワークス契約の元レーシングドライバーで、「日本一速い男」と呼ばれた星野一義氏が設立したチューナーズ・ブランドだ。母体メーカー「ホシノインパル」の設立が1980年というから、実に40年以上の歴史を誇る老舗。あくまで日産車にこだわり、エアロやマフラー、サスペンションにコンプリートカーなど、今まで数々の大ヒット作を生み出してきた。また、日産直系ワークスチューナーのニスモやオーテックと同様、全国の日産ディーラーでパーツなどが購入できることから、昔からのレースファンや日産ファンだけでなく、クルマ好きなら一度は名前を聞いた事があるだろう。

 そのインパルが、最初に世に出したのがホイールだった。「D-01シルエット」と名付けられたそのホイールは、なんと1か月で2万本以上売れるという大ヒットを記録したのだが、そこに至るまでの道のりは困難の連続だったという。

 ここでは、そんなインパル黎明期の逸話や会社設立の経緯、今後の展望などを、代表の星野一義氏ご本人に伺った。ホシノインパル初のホイール「D-01シルエット」

32歳の黄金期にインパル設立

 日産ワークスのレーシングドライバーとして、1970年代から2000年初頭まで活躍したレジェンドレーサーが星野一義氏だ。カルソニックGT-R(32型スカイラインGT-Rがベース)で出場した全日本ツーリングカー選手権、フォーミュラーカーシリーズの全日本F3000選手権、富士GC(グランドチャンピン)シリーズなど、数々の国内レースで優勝し、「日本一速い男」と呼ばれた。カルソニックGT-Rのメカニズム透視も入れた特注イラスト

 また、海外でもル・マン24時間レースやF1、ヨーロッパF2選手権などで大暴れし、当時のレースブームを牽引した立役者のひとりだったことは、レース好きならずとも、40歳代以上の人なら多くの人がご存じだろう。星野一義引退セレモニーともなったニスモフェスティバル その星野氏がホシノインパルを設立したのは、日産ワークス入りして11年後の1980年、32歳の時だ。当時、レーシングドライバーとしてはすでに一流で、数々のタイトルを手にし、体力やテクニックなども脂がのっていた頃だ。星野氏が獲得したトロフィーの数々。1987年の富士GCシリーズ優勝カップなどもある

「野球や相撲のように、レースもプロスポーツの世界。いかに速くて成績がいいドライバーでも、いずれ若い人に入れ替わる時がくる。当時の日産ワークスには多くの先輩方がいたけれど、30歳代半ばを過ぎるなど一定の年齢になり、成績なども残せなくなると、辞めざるをえない方を多く見てきた。いつか自分もそうなるという不安から、レーシングドライバーだけでは食べていけないと思った」。東京世田谷のホシノインパルのショールーム

 飲食業をやることも考えたが、「自分にできることはクルマしかない」と思い、ホシノインパルを設立。レースで長年籍を置く日産のクルマに特化し、自分でセッティングしたホイールやサスペンション、エアロなどを作るメーカーを立ち上げた。当初の拠点は東京都三鷹市だったが、1985年に東京都世田谷区桜丘の環状8号線沿いに移転、現在はショールームとファクトリーを備える「ガレージインパル」を本拠とする。東京世田谷のホシノインパルのショールーム外観

 ちなみに、社名の「インパル」は、「衝撃」とか「衝動」という意味の英語「インパルス(IMPULSE)」が語源だ。アイデアは、星野氏が2輪のレーシングライダーだった頃の盟友で、一緒に会社を立ち上げた故・金子豊氏が辞書などを調べ提案したもの(星野氏は、4輪レースをやる前に2輪のモトクロスライダーとしてカワサキワークスと契約、全日本チャンピオンにも輝いている)。現役時代、レースで激しい走りや闘志をみせた星野氏にぴったりだったが、そのままでは採用しなかった。

「インパルスでは語呂が悪いと思った。ホンダの(ビジネスバイク)『カブ』のように言いやすくて覚えてもらいやすい方がいいから、『ス』をとってインパルにしたんだよね」。

 金子氏とは電話でやり取りしただけ。40年以上続くことになる老舗ブランド名は、意外にあっさりと決まった。星野一義

試作ホイールの格好悪さに呆然

 ビジネス界に入った星野氏が、最初に手掛けたのが、前述の通り、ホイールだ。理由は、当時からクルマのカスタムパーツとしてかなり人気が高かったため。レイズやワーク、スピードスター、レーシングサービスワタナベ、ハヤシレーシングホイールなど、いずれも創業者がレーサー出身のメーカーが作る製品が大ヒットしていた。

 自社で工場まで作る資金力はなかったため、まずは生産を委託できる会社を探した。その時に出会ったのが、世界的なホイールメーカーとして名高い「エンケイ」の鈴木順一社長だ。当時、ホイール製作については素人同然だった星野氏の依頼を快諾してくれたことが縁となり、現在もインパルのホイールはエンケイでのみ生産、40年以上の長い付き合いとなった。

 インパル初のアイテムということで、気合いも十分だった星野氏だが、いざ自分がデザインしたホイールの試作品(木型)ができあがって愕然とした。

「まったく格好良くなくて、これは売れないと思った。当時、エンケイさんの工場の周りは田んぼだったんだけど、そこでしばらく呆然としていたことを覚えている」。

 失意のままミーティングルームに戻った星野氏は、鈴木社長からある提案を受ける。

「エンケイで使っていないデザイン案で、気に入ったものがあれば使っていいと言って頂いたんだよ」。

 試しに、たくさんの試作が並ぶ部屋に入ってみる。すると、中にピンッときたデザインがあり、一目で気に入った。それが、後に大ヒットとなった「D-01シルエット」の原型だった。D-01シルエット

レースで使い大ヒットへ

 3ピース構造のディッシュタイプで、ディスク面に星形の切り欠きが入ったデザイン、サイズは14インチからスタートした。ようやく出来上がったが、発売直後は全く売れなかった。自身のブランドで初めて出す製品だけに、なんとか成功を収めたい星野氏。忙しいレーススケジュールの合間を縫って、北海道から九州まで、全国の問屋などを自ら名刺を持って営業をした。だが、売り上げは全く伸びなかった。スーパーシルエットのシルビアはD-01シルエットを履く

 転機となったのは、リリースして3年目の頃だ。当時、人気が高かったレース「スーパーシルエット」に参戦していた星野氏は、自身が操る「S110シルビア」のレース用マシンにD-01シルエットを履かせて走らせたのだ。以後、それを見たファンなどから注文が殺到、前述の通り、1か月で2万本以上も売れる大ヒットとなる。レースでは耐久性を増すため、ディスク面に補強用のボルトを追加したが、それをそのまま販売したこともファンに大きな支持を得て、なんと数十億円にも上る爆発的な売り上げを記録した。「D-01シルエット」の実戦バージョン

 ちなみに、当時レースで使用したD-01シルエットは、今もインパルのショールーム内で、テーブルに形を変えて使われている。ショールームを訪れた人は誰でも、伝説のホイールを見るだけでなく、触ることすらできるのだ。貴重なホイールだけに、もっと厳重に保管されていると思いきや、まさかテーブルになっているとは意外。だが、そこに星野氏の飾らない人柄が現れているともいえるだろう。オフィスのテーブルに利用されていた初代D-01シルエット

 また、D-01シルエットのデザインはNV350キャラバン用ホイール「インパル・シルエット」で復刻されており、今でも購入が可能だ(税別2万5000円/1本)。オリジナルの4穴から6穴タイプへ変更されたことにより、ディスク面の切り欠きが増えているが、基本スタイルはそのままだから、当時の雰囲気を十分に味わうことができる。「インパル・シルエット」はNV350キャラバン用ホイールで復刻した

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