265万台市場の現実と電動化の壁
レーシングドライバーであり自動車評論家でもある木下隆之氏が、いま気になる「key word」から徒然なるままに語る「Key’s note」。今回のお題は「ベトナムのバイク事情」。政府は、2026年7月から、首都ハノイ中心部へのガソリンバイク乗り入れを禁止すると宣言しました。これは、ベトナムのバイク市場で8割のシェアを占めるホンダにとっても大きな転換点となります。
首都ハノイからガソリンバイクが消える日
ベトナムという国は、初めて降り立った者の目をまず圧倒するのが、その路上の風景である。まるで万匹の蟻が一斉に巣穴を飛び出したかのごとく、バイク、バイク、バイク。四方八方から飛び出し、時に逆走する。
そのバイク天国に、冷水を浴びせるような発表がなされたのは、つい先日のことだ。政府が首都ハノイの中心部へのガソリンバイク乗り入れを禁止すると高らかに宣言したのである。発効は2026年7月。あと1年もない。
これが何を意味するのか。ベトナムのバイク市場の8割を握るホンダにとっては、強烈な向かい風となる。ホンダも電動バイクを持っていないわけではないが、その数はごくわずかだ。路上の大半はガソリン仕様なのである。
政府の説明はもっともらしい。「環境対策」だという。ベトナムは世界でも環境悪化が深刻な国のひとつとされる。庶民の足はクルマではなくバイクだ。しかもガソリン。これを規制すれば空気はきれいになるという理屈だ。
だが、そんな話を額面どおりに受け取る気にはなれない。共産主義国家の本音は、自国産業の保護、そして外資の駆逐──それは北の大国・中国が歩んできた道と、じつによく似ているから怖い。
電動化を推し進める政府の思惑とベトナムの電気事情
現に、この規制でもっとも得をするのは誰か。国営企業「ビンファスト」である。電動バイクにおいて、彼らはすでに国内最大手だ。販売台数はまだ7万台と少ない。全体のシェアではホンダの30分の1と慎ましいが、電動バイクに限れば頂点にいる。つまり、土俵を電動に移せば、あとはひっくり返すだけだ。
しかもビンファストはバイクだけではない。電気自動車でも国内最大手だ。すでにトヨタや現代とシェアを争い、EVの街を夢見ている。電気仕掛けのクルマとバイク、その両方で覇権を握る──それが国家の夢であり、ビンファストの野心でもある。
もちろん、現実はそう簡単ではない。ベトナムのバイク販売は2024年に265万台。クルマは40万〜50万台だから、圧倒的な比率だ。
庶民の足は軽くて安いガソリンバイク。充電設備は心許なく、停電も珍しくない。電動バイクのバッテリーが発火するニュースだって時折耳に入ってくる。そんななかで一気に電動化するというのは、無理のような気がする。
だが、理屈ではなく、政府の号令ひとつで市場が向きを変えるのがこの国だ。路地裏の修理工場が慌てて充電器を置き、若い配達員がバッテリーの交換方法を学び、街角のコーヒー屋が延長コードを客に貸す──そんな光景が、あっという間に日常になる可能性もある。
ガソリン臭からバッテリーの熱気へと変わるのか
なんと言っても、電動化政策で成功した(…かのように見える)中国とは国土が接している。ともに共産主義国家だ。施策的にも技術的にも、いい手本が隣にいるのである。
ベトナムの朝の匂いは、フォーの湯気とガソリンの揮発臭が混じり合ったものだ。そのガソリンの香りが薄れ、かわりにバッテリーの熱気が漂う──そんな未来を、僕はまだ想像しきれない。けれども、この国の変化はいつも唐突で、そして容赦がない。
2026年7月。ハノイの旧市街に立ち、僕は耳を澄ますだろう。あの無数のピストンが刻む鼓動が消え、電動の静けさが広がる朝を迎えるのか。それとも庶民の足はしぶとく生き延び、ガソリンの香りとともに走り続けるのか。
ベトナム国民の生活を支えてきたホンダの業績にも影響するだけに、黙ってはいられない。






















































