1982年 日産バイオレットがサファリ4連覇
70年にサファリで三冠を獲得した510ブルーバードは、その後のモデルチェンジでブルーバードU(610系)へと移行します。しかし大型化が災いしたかサファリ・ラリーでは期待されたほどの好成績を挙げられませんでした。
そこでひと回り小さなボディのバイオレット710が開発されました。ブルーバード直系の4ドア・ラリーマシンとして真の後継車となっていき、77年にフルモデルチェンジで登場した2代目のバイオレット(A10系)がラリーで大活躍することになります。
78年のサファリラリーで、輸出名のダットサン160JでエントリーしたA10バイオレットは3位入賞を果たしますが、翌79年にはシェカー・メッタ/マイク・ドゥーティ組が総合優勝を飾っています。
80年に連覇を果たした同コンビは、翌81年からは16バルブ2リッター直4のLZ20Bエンジンを搭載したグループ4仕様のバイオレットGT(PA10型)を持ちこみ82年まで連覇。同一コンビ、同一モデルによる、なんとサファリ4連覇の偉業を成し遂げました。
1983年 持てる技術投入した日産240RSが登場
1983年、モータースポーツの車両規定が一新されました。それまでグループ1~4で争われていたWRCも主役がグループBに置き換えられることになり、これに応える格好で日産は、ラリーの次期主力マシンとしてシルビア(S110系)をベースにしたグループBモデルを開発することになりました。それが日産(ダットサン)240RSです。
市販車をレギュレーションに則ってチューニングするのではなく、ラリー(やレース)に向けた専用モデルを開発する。自動車メーカーの戦いは、新たなステージに突入していたのです。
ボディは4ドアセダン(バイオレット)から2ドアクーペへと一新されていますが、エンジンをフロントに搭載して後輪を駆動、サスペンションもストラット/4リンク・コイルと基本レイアウトはバイオレットGTから踏襲していました。そしてエンジンも同じ直4ながら2リッターのLZ20Bから2.4リッターのFJ24型にコンバートされ20馬力ほどパワーアップしていました。
新生グループBに向けて登場したスポーティクーペの240RSは、83年の第51回モンテカルロラリーにティモ・サロネンを起用したのですが、しかしながら、世の趨勢は、アウディ・クワトロA1、A2など、ターボ+4WDへと移行して行きます。サロネンは240RSでシーズン後半にニュージーランド2位、1000湖8位でポイントを得ましたが、マシンは時代に取り残された格好となり、高い競争力を発揮することは叶いませんでした。
1992年 日産パルサーGTI-R コンパクトさの失敗と成功
グループBによる技術競争が激化すると開発コストの高騰を招きました。また高性能マシンでのアクシデントが繰り返されたこともあり、1987年からWRCの主役はグループAに置き換えられることになりました。
当初は3リッターV6エンジンを搭載したシルビア(S12系)で参戦。しかしグループB時代の終盤から様々な路面状況に対応するラリー競技の世界では4WDマシンの優位性が際立ってきました。
そこで新たな本命として白羽の矢が立てられたモデルがパルサー(N14系)。3ドアのハッチバックボディのフロントに、直4エンジンを横置きに搭載した典型的なコンパクトカーで、これに4WDシステムを組み込むとともにエンジンをターボで武装すれば、最強のラリーマシンが完成する。そんなコンセプトでパルサーGTI-Rは仕上げられました。
しかしグループA仕様のラリーカーを製作する上では、コンパクト過ぎるボディが災いしてしまいました。ひとつは大きなタイヤを装着できずに強大なパワーを持て余してしまい、加えてエンジンルームには補機などがギッチリ詰め込まれますので、結果、クーリング(冷却性)に苦労してしまう…。そんなことから2年間と短い期間でWRCの主戦場からは降りてしまいました。
ただし悲運のモデル、グループA仕様のワークス・マシンが撤退した後も、改造範囲がより厳しく制限されたグループN仕様車ではパルサーの活躍は続きます。
市販車の基本性能の良さが成せる技でしょう、クラスタイトルをも勝ち取っていました。